聖書の事実

肉体、心、霊魂 (PDF) PDF版

肉体、心、霊魂

ひとは単なる肉体と心の存在でしょうか、それとも、肉体、心、そして霊魂の存在でしょうか? これはもっとも基本的な疑問であり、誰かがそれに対して正しい答えを出さねばならないと私は信じます。この、肉体、心、そして霊魂ということがらこそ、本誌にとってはもっとも重大な問題のひとつと考えるのです。したがってみなで肉体、心、そして霊魂という問題に対して聖書の言葉の中に答えを求めてゆくとき、この問題についてだけでなく、他の同様に重要な関連課題についても、十分に考えてみたいと思います。

1. 肉体、心、霊魂: アダムとイブが原罪を犯したとき、そこで死んだものは何だったでしょうか?

体、心、そして霊魂という話題を取り上げるとき、私たちは聖書の最初の本、創世記を見る必要があります。そこでは、神が人を造られた後、それに対して制約を課し、それを破るとどのようなことになるかをはっきり申し渡されています。

創世記第 2章16節から17節
「主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう』」

神がアダムに課した制約とは、彼はこの善悪を知る木からは、取って食べてはならないというものでした。この制約を破ったことに対する罰は次の通りです。「その日(ここに注意してください。まさにその日、と言っています)、それを食べた日、あなたはきっと死ぬでしょう。」この罰に関して、ふたつの重大なことがらを強調しなければなりません。第一は、もしアダムがその木から取って食べたならば、死は即座に、まさにその日にやってくるという点です。第二は、それは確実に起こる、という点です。この「あなたはきっと死ぬでしょう」という語句は、死はその日、100%確実に起こるということを強調しています。

ですが私たちはみな、創世記第3章1節から6節によって悪魔がアダムとイブをだまし、どのように神が彼らに課した制約を犯させ、善悪の木から食べるようにしたかを知っています。その木から取って食べたあと、神が創世記第2章17節でふたりに語ったところによれば、彼らはその瞬間に死ぬはずでした。ですが創世記第5章4節から5節はアダムについて、つぎのように述べており、ここに問題があります。

「アダムは、セトが生まれた後八百年生きて、息子や娘をもうけた。アダムは九百三十年生き、そして死んだ」

したがって聖書によれば、アダムは肉体の命を保ち、善悪の木から取って食べて以来、多くの年月を生き続けたというのです。ですが神は、アダムはその木から取って食べれば、その日のうちに死ぬことは100% 確実だと言われたのです。ではアダムとイブがそれを食べた日、実際にはなにが起きたのでしょうか。彼らは神の言葉通り、そこで死んだのか、それとも死ななかったのでしょうか? この「問題」を解決するのは誰でしょうか? 人間のアイデア、理論、宗教、そして伝統でしょうか? いいえ! 私たちに回答を与えられるのはただひとり、それはほかならぬ神のお言葉なのです。そしてもし御言葉に答えを望むならば、あなたはそれ自体に解決をゆだねる以外にありません(自身による解釈)。

私たちの場合、神は嘘をおつきになれない(民数記23章9節)のですから、アダムとイブは、木から取って食べた日、事実死んだのです。実際には、イブをだましたとき、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう」と言ったのは悪魔だったのです。ですから、神が仰せになったとおり、その日ふたりが死ななかったのであれば、悪魔は正しく、神は間違っていたことになります。ですが今日多くのひとびとが「実際には神が、ふたりは必ず死ぬであろうと言われたとき、それは死という精子が体に埋め込まれたということだった」と教えているのはそのためです。ですが神の御言葉には、そのような弁護は必要ではありません。事実、御言葉は真実であり、それ自体独立のものであるため、なんの弁護も必要ではないのです。そこで本題に戻ります。神は、ふたりはまさにその日のうちに死ぬ、とおっしゃったのですから、ふたりはその日、本当に死んだのです。ですが彼らは、善悪の木から取って食べた後も肉体の命は続いたのですから、彼らは肉体のほかに、ほかの形の命を持っていたことは明らかで、食べたために死んだのはその命であり、それが死の理由だったのです(ある命の形の欠如)。ですから私たちは聖書の中に、ひとはどのようにして造られ、それは何によって構成されていたのかを捜し求めなければなりません。最初の人間の命を構成していたのは何だったかを知れば、あの日、なにが失われたのかを知ることができるでしょう。

2. 肉体、心、霊魂: 肉体と心の部分

最初の人間がどのように造られたかを調べるために、創世記第2章7節を見てみましょう。そこにつぎの言葉があります。

「主なる神は土のちりで人を造り…」

では神は人のどの部分を土のちりで造ったのでしょうか? それは肉体でした。人体を構成している要素が土のなかに見られるのはそのためです。ですから、最初の人のひとつの部分は肉体でした。ですが、さらに見てゆきましょう。

創世記第2章7節
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」

私たちはこれで、神は人の体を土のちりからお造りになったことを知ります。

ですがこの体には命がありませんでした。それは命を持たないままに形づくられたわけです。ですが神の御言葉は、神は「その鼻に命の息を吹きいれられ、人は生きた心となった」と続きます。では心とは何なのでしょうか? 心は体に命を与えるものです。ですがひとびとがここに述べられている神の、このような簡単な御言葉を理解しないことによって、終わりのない混乱が生じているのです。ここで、人の体に命をもたらしているのは、心であると神は述べていらっしゃるのです。心がなければ、体は死ぬのです。では体の命、肉体の命である心はいったいどこにあるのでしょうか? 神の御言葉は非常に的確です。

レビ記第17章11節、13節から14節
生き物の命〔ヘブライ語ではネフェシュ〕は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。鳥類のうちで、次のものは汚らわしいものとして扱え。食べてはならない。それらは汚らわしいものである。禿鷲、ひげ鷲、黒禿鷲、鳶、隼の類」

私たちは 創世記第2章7節 で心 (ヘブライ語でネフェシュ)が体に命を与えるものであることを学びました。ここレビ記には「肉体の命は血のなかにある」とあります。上で引用した文章では、「命」という言葉はヘブライ語の「ネフェシュ」を翻訳したものであり、それは創世記の第2章7節、その他753の同様な箇所のうち471までが「心」と訳されているのです。では「ネフェシュ」あるいは心とはなんなのでしょうか? 創世記の第2章7節によれば、心とは体に命を与えるものだとあります。「ネフェシュ」、体の命、心はどこにあるのでしょうか? レビ記第17章11節から14節によれば、それは血の中にあります。「肉体の命(ネフェシュ、心)は、その血の中にある。」この心の命は、ひとつの世代から次の世代へ、どのように引き継がれるのでしょうか? 血によってです。使徒言行伝第17章26節につぎのようにあるのはそのためです。

「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました」

このなかでいう「ひとつの血」とはアダムの血のことで、ひとつの世代からつぎの世代に引き継がれる、私たちすべてが持っている血なのです。

事実、心は人間だけが持っているものではありません。動物にも心はあり、それもまた、血の中にあります。このことは上のレビ記の、肉を持つすべての命は血の中にあるという文章からすぐにわかりますが、創世記第1章20節から21節、29節から30節 にもそれがあるか、見てみましょう。

創世記第 1章20節から21節
「神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた」

創世記第 1章29節から30節
「神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。神はまた地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるもの〔ヘブライ語のネフェシュ〕にはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった」

したがって人間ばかりでなく、動物も「ネフェシュ」つまり、「心」を持っているのです。これは私たちが、心は体に命を与えるものだと知っていれば、不思議なことでも何でもありません。あなたが死ねば、もう命はなくなり、心もなくなります。動物にも同じことが起きます。心は動物にとっても人間にとってと同様に、体に命を与えるものなのです。ところで聖書の中で定義されている心については何の問題はないにしても、問題は私たちが、心は不滅なのだという先入観を持って聖書に接したときに起きます。もし心が不滅なのであれば、人間が「ネフェシュ」をもっているように動物も「ネフェシュ」をもっているので、さまざまな動物の心も不滅だということになります。心は不滅のものではありません。それは体に命を与えるものです。ですからあなたがその体に命を持たなくなれば、心はなくなります。

ここまでに私たちは、聖書は神が人間の体を土のちりから形作り、その体に命、つまり心を与えたといっていることを学びました。これは動物についても同じであることがわかります。彼らにも体と心があるのです。世界中の人間は、信者もそうでないものも、体と心を持っています。そこでアダムが930歳で死んだので、善悪の木から取ったものを食べたとき、彼は自分の体も心も失いはしなかった、と結論してよいでしょう。ですから、その日、アダムからなにかが死ななければならなかったのですから、彼には少なくとも別の部分があって、それが木の実を食べたときに失われ、死んだに違いありません。では聖書の中でそのことについてどう述べられているか、続けて捜し求めてゆきましょう。

3. 肉体、心、霊魂: 霊魂の部分

創世記の第1章26節から27節に答えを求めましょう。そこにはこうあります。

創世記第 1章26節から27節
「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」

この文章によれば、神は人を「ご自分にかたどって」造られたのです。これは、もし私たちがアダムとイブが善悪の知識の木から食べたとき、実際になにが起きたのか、そして他の聖書の中の、ここで述べられていることがらから影響を受けている文章がなにかを知りたいと望むならば、非常に重要なポイントなのです。上の文章を読みますと、では神はどのようなかたちなのか、という疑問がわいてきます。神はどのようなかたちをしているのでしょうか? ヨハネによる福音書第4章24節にはこうあります。

「神は霊である」

神は肉体ではなく、霊魂です。それが神のかたちなのです。したがって神の御言葉が私たちに、神は人間を自分のかたちによって造られたと語るとき、それは人間は体と心のほかに、神そのもののかたち、つまり霊魂をも持っているという意味になります。そこで上記の重要な文章にある「ご自分に似せて」という言葉をよりよく理解するために、この言葉が記されている別の部分を見てみましょう。

創世記第5章1節から3節
「これはアダムの系図の書である。神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた。アダムは百三十歳になったとき、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた。アダムはその子をセトと名付けた」

ここではアダムは息子を「自分に似せ、自分にかたどって」生んだ、といっています。これはなにを意味するでしょうか? それはアダムがそうであったように、彼の息子もアダム同様に手を持ち、セツも手を持っていたという意味なのです。そしてアダムと同様、セツも足、その他を持っていた、アダムと同様、セツも体と心を持っていました。同様に神の御言葉が人間を「自分のかたちに」「神にかたどって」造ったとあるとき、それは神のようにアダムはあった、ということになります。神は肉体ではないのです。彼は手足や頭は持っていないのです。神は霊魂なのです。ですから神が霊魂であるように、アダムも霊魂でした。そこで、なぜ神はアダムを体、心、霊魂とは別にお造りにならなかったのか、という疑問が湧くことでしょう。答えは簡単です。霊魂がなければ、アダムは霊魂である神と意志を交わすことはできなかったのです。神は霊魂であるために、体や心と意志を交わすことはできないのです。これらは別物です。無線のメッセージを受信するためには、無線の受信機がなくてはなりません。あなたは洗濯機を持っているでしょう。ですがあなたが洗濯機を持っているからといって、それで無線を受信できるわけではないですね。あなたは無線の受信機が必要なのです。同様に、神は霊魂であるために、神と意志を疎通するためには、あなたは霊魂を持たねばならないのです。体と心は五感を受け取るためには十分な感覚です。ですがことが神に関するときには、あなたは霊魂が必要になります。この真実は、コリントの信徒への手紙一第2章14節によってつぎのように説明されています。

「自然の人は〔ギリシャ語ではスチコス〕神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです」

この文章の中で「自然の人」と訳されている言葉は、もとはギリシャ語の形容詞「スチコス」で、これは心を意味する名詞「スチ」から来ています。ですからスチコスとは「心の人間」つまり体と心のみという意味になります1。この文章によれば、体と心だけしかない人間は「神の霊魂を受け止めることはできない」のです。「神の霊魂に関したことがら」を受け取る、神と意志を交わすためには、上記のように適切な受信機、つまり霊魂を持たねばなりません。この語句がつぎのようにいっているのはそのためです。「また御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない」体と心の人間にとって、神のことがらを知るのは、それが霊魂のことがらであるという単純な理由によって、不可能なことであり、「霊魂を理解することができず」、霊魂を持たないために彼らはそれを知ることがないのです。ここまで述べたことがらを要約しますと、アダムは土のほこりから造られた体を持ち、その体に命を与えた心を持ち、そして神と意志を交わすことのできる霊魂を持っていました。彼は体、心、そして霊魂だったのです。この点を明らかにしたので、アダムとイブが善悪の知識の木から取って食べたとき、なにが起きたかについては、もう疑問の余地はないでしょう。神はそのようにして食べたならば、ふたりはその日、確実に死ぬと仰せられたのです。死とは命の形の不在だと知っていれば、私たちにはその日なにが死んだかがわかるでしょう。アダムは体、心、そして霊魂であり、そして彼の体はそれを食べてから何年も経ってから死にました。さて、心がなければ体に命はないのですから、アダムにはその木から食べたあとでも、体と心はありました。一方、神の御言葉に間違いはないのですから、その日、なにかが死ななければならなかったはずです。アダムは木から食べる前は体、心、そして霊魂だった、そして食べた後も体と心は持っていたのですから、あの日失われたものは神がお与えになった霊魂だったはずです。彼は体と心は持ち続けたが、霊魂は失いました。彼の霊魂は彼を去り、食べる前に彼が持っていた命の形である霊魂は、こうして死んだのでした。

聖書は、あなたがそれ自体に解釈をゆだねるとき、ものごとはこのように明瞭になることがわかるでしょう。ペンテコステで霊魂が回復し、聖霊が得られるようになるのはこの霊魂の喪失のためですので、こんにちの私たちは、イエス・キリストを信ずることによって、ふたたび体と心、そして霊魂となることができるのです。テサロニケの信徒への手紙一第5章23節のなかでパウロがつぎのように言っているのはそのためです。

「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように」

いま、主イエス・キリストとその復活を信じ、聖霊の賜物を受け取れば、私たちはもう体と心だけでなく、体、心、そして霊魂となれるのです。

タソス・キオラチョグロ(Tassos Kioulachoglou)

日本語: Tsukasa Ugaeri / Tomoko Crawford /

Bible Copyright: ©共同訳聖書実行委員会Executive Committee of The Common Bible Translation

 

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脚注

1. おなじ言葉、スチコス(魂の人間、体と魂の人間)は、コリントの信徒への手紙一第15章44節と46節、ヤコブへの手紙第3章15節、およびユダの手紙にもあります。