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競走、戦い、戦闘  (PDF) PDF版

競走、戦い、戦闘

ヘブライ人への手紙第12章1節から2節に次のように書いてあります。

ヘブライ人への手紙第12章1節から2節
「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」

私たちはこの箇所で、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら、自分に定められている競走を忍耐強く走りぬくように呼びかけれています。このくだりは私たちキリスト教徒の歩み、つまりキリスト教徒の人生を、私たちが走らなければらない競走として描いています。

1. 忍耐強く、そして

2. 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。

パウロはまた別の場所、フィリピの信徒への手紙で、その競走について再び語ります。 そこにはこう書いてあります。

フィリピの信徒への手紙第3章12節から14節
「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」

パウロは自らを既に賞を得たものとはみなしませんでした。その代わり、彼は過去のことを退け、神がキリスト・イエスによって上へ召してくださり与えてくださる賞に向かってひたすら進んでいました。達成するべき目標があり、受け取るべき賞がありました。パウロはこの賞を既に受け取ったとは考えていませんでした。代わりに、彼はこの賞を受け取ることに人生の焦点を置きました。パウロは目標志向でした。そして、その目標とはキリスト・イエスによって神に上へ召していただくということでした。

パウロはコリントの信徒への手紙一第9章24節から27節において再びその競走と賞について語ります。そこには次のようにあります。

コリントの信徒への手紙一第9章24節から27節
「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」

パウロは朽ちない冠を目指して競走を走っていました。彼の人生は目標を中心にしており、その目標とは主の御手から受け取ることになっている朽ちない冠でした。 彼は他の何物にもこの目的の邪魔になることを許そうとはしませんでした。彼は半信半疑で走ってはいませんでした。彼は自分の目標を知っていたし、彼を待ちうけている賞についても確信がありました。競技者が競走に勝つという目標を心に留めて訓練するように、パウロもまた、失格者にならないように注意しながら、自分の体を訓練していました。けれどもパウロの走っていた競走は彼だけのものではありませんでした。私たちも同じ競走を走っています。同じ冠、同じ賞が私たちをも待ち受けているのです。

さらに話を進めると、私たちが走ることになっている競走はまた、上記コリントの信徒への手紙一の引用では、戦いとしても描かれています。パウロはそれについて他の場所でも語っています。その一つはテモテへの手紙一で、その中でパウロはテモテに指示を与えて以下のように書いています。

テモテへの手紙一第6章12節
信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。」

良い戦い-良き信仰の戦い-があり、私たちはそれを戦わなければなりません。またガラテヤの信徒への手紙の中で、パウロは彼らの信仰の状況について思いめぐらしながらこう書いています。

ガラテヤの信徒への手紙第5章7節から10節
あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。」

彼らは良く走っていたのですが、もうそうではありませんでした。誰かが彼らの邪魔をし、迷わせたのです。ですから、その競走にはまた、競争相手もいるようです。私たちによく走ってもらいたいくないと、できれば全然走ってもらいたくないと思っている誰かが。

パウロはまたしてもその競走と戦いについて、テモテへの手紙二第2章3節から5節でも語ります。

テモテへの手紙二第2章3節から5節
キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい兵役に服している者は生計を立てるための仕事に煩わされず、自分を召集した者の気に入ろうとします。また、競技に参加する者は、規則に従って競技をしないならば、栄冠を受けることができません。」

競走は戦いになり、戦いは戦闘になります。競技に参加する者は兵士でもあり、兵士は戦士でもあります。そして、立派な兵士は苦しみを忍ぶことを学ばなくてはなりません。

上記を要約すれば、競走の良き走者、あるいは立派な兵士のあるべき姿を下記のように描くことができます。

つまり、立派な兵士あるいは走者は、

i) 忍耐をもって競争を走ります。バーンズ氏がその注解で説明しているように、

「この箇所で『忍耐』と訳されている語はむしろ粘り強さを意味します。私たちはその競争をいかなる障害物にも邪魔させず、途中でへたばったり失神したりすることなく走ることが要求されます。私たちより前に同じ競走を走りぬいた大勢の人の例に励まされて、彼らのように最後まで粘り強くやりぬく必要があるのです。」

ii) 目標志向であり、その人生における目標は人生をできるだけ安楽なものにすることではなく、神がキリスト・イエスによって上へと召して与えてくださる賞を受け取ることです。

iii) 半信半疑で走りません。空を打つようなことはしません。目の前に目標、賞、朽ちない冠を据えています。バーンズが再び次のように説明しています。

「半信半疑ではなく- (ουκ αδήλως ouk adelos).この語は新約聖書において他にどこにも見られません。それはたいてい、古典作家にあって「不明瞭に」という意味を持っています。ここでは彼が何を目標にしているか知らずには走らなかったことを意味します。「私はでたらめに走りません、無駄に努力しません、何を目指すか知っていて、その目標から目を離しません、目標と冠を視野に入れています。」

iv) 自分を訓練し、自身も失格者となりえることをよく知っています。資格喪失の危険性に関して、パウロはコリントの信徒への手紙二において私たちに次のように告げています。

コリントの信徒への手紙二第13章5節
信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。」

良い走者は自分を反省し、信仰を持って生きているかどうか自分を吟味します。自分を調べ、訓練します。

v) さらに進んで、立派な戦士は生計を立てるための仕事に煩わされません。自分を選んだ人を喜ばせるためにそうするのです。私たちはイエス・キリストの兵士でありながら同時に自分自身の用件に全関心を寄せることはできません。兵士に召集がかかったら、彼らは仕事や農場や店を置いて戦争に出かけます。しかしこれは今、私たちがイエス・キリストの兵士であるから、自分の職業を放棄しなくてはならないという意味ではありません。パウロ自身が生計を立てるためにテントを作っていました。ですが、私たちはそれに「煩わされ」たり、心を奪われたりしてはいけません。「マシュー・ヘンリ注解書」に書いてあるとおり、

「兵士が彼の大将を喜ばせることに細心の注意を払うべきであるように、キリスト教徒はキリストを喜ばせること、キリストに自らを認めることに細心の注意を払うべきです。私たちを兵士として選んだ方を喜ばせる方法は、生計を立てるための仕事に煩わされず、聖い戦闘において私たちの邪魔となるそのようなもつれから開放されることです。」

言い換えれば、確かに私たちには職業や、処理しなければならない務めがあります。しかし、私たちはそれらすべてのことに煩わされ、夢中になり、気をとられてはいけません。それらのことは私たちがここに存在する目的ではありません。私たちがここにいるのは、自分たちの大将を喜ばせるため、イエス・キリストの良き兵士になるためです。 私たちは戦闘の中にいます。そうでないかのように落ち着いてしまってはいけません!

これを発展させると、主イエス・キリストが種を蒔く人のたとえでおっしゃったように、この世の煩いや、富による欺き、人生の快楽-つまり、パウロが語るところの世のものごとへの煩い-は神の御言葉を実りのないものにしてしまいます。このたとえ話では多くの人がよいスタートを切りました。神の御言葉が蒔かれ、多くの人の心で芽を出しました。それでも実を結ばせたのは最後のカテゴリーの人だけでした。このこともまた、競走を有益に終える者の数は必ずしも初めの数と一致しないことを示しています。このたとえ話に主が与えた解釈を見てみましょう。

ルカによる福音書第8章11節から15節
「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」

二番目と三番目のカテゴリーの人はよいスタートを切りましたが、終わりがよくありませんでした。よって、競走を始めることだけが大切なことではありません。競走を始めたら、一番大切なことは遅れないように走り続けることです。そして遅れないようにするためのただ一つの方法は、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら、忍耐強く走ることです。戦いを戦い、大将を喜ばせることを目指して、この世のものごとに煩わされないようにして。キリスト教徒になることは快楽に満ちた安易な人生への切符を手に入れることだという誤った考えがあります。 「祝福」という言葉が、何でも気に入ったことを神が叶えてくださるということを意味するようになってしまいました。多くの場合に、安易な人生がその目的となってしまいました。私たちはそれが目的にならないように注意しなくてはいけません。ここでの私たちの目的は主イエス・キリストに仕えることです。この世のものごとに煩わされたり、それに焦点を置くと、たった一つのことしかできません。それは、私たちの心に蒔かれた種に実を結ばせなくすることです。

この人生における私たちの目的は、成功者についての社会的定義を満たすことではありません。もしもパウロやペトロやその他の信仰者たちが現在に生きていたら、彼らは社会であまり高く評価されていないでしょう。パウロはキリストを得るために、持っていた全ての地上の特権、社会が価値のあるものとして認めていたものをすべて放棄しました。パウロはフィリピの信徒への手紙第3章4節から11節で以下のように語っています。

フィリピの信徒への手紙第3章4節から11節
「とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」

キリスト教徒となる以前にパウロが成し遂げていたことはたくさんありました。 パウロは社会が尊敬するような人でした。彼のいた社会やこの世の定義によれば、パウロは「成功している」人でした。それでも、彼はキリストを得ることに比較して、それらをすべて塵あくた とみなしました。

キリストにあって実を結ぶためには、苦難を忍ばなくてはなりません。誘惑に耐えなければなりません。富や自らの力に信頼するのをやめなくてはなりません。もしも私たちが隣人よりも少し裕福になるため、あれやこれやの困難を避けるため、あるいはもっと「祝福」を受けるためだけにキリスト教徒になったのだとしたら、私たちは誤解してしまっています。パウロがコリントの信徒への手紙一第15章19節で言っているとおりです。

コリントの信徒への手紙一第15章19節
「 この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」

もし私たちがこの世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、もし私たちの望みの焦点がこの世の生活であるとしたら、私たちは最も惨めな者です。そうではなくて、この人生における私たちの目的は、私たちを召してくださった方、主イエス・キリストを喜ばせることです。彼が私たちの大将であり、 信仰の創始者また完成者であり、私たちはから目を離さず、忍耐強く走ってのみ、その競走を走りぬくことができるのです。

イエス・キリストは「何でも手に入れられる」人生を約束されませんでした。彼は私たちに自分の十字架を背負うようにと招かれました(マルコによる福音書第8章34節)。確かに祝福を約束されましたが、困難についても語られました。賞がありますが、競走もあります。冠がありますが、戦いもあります。私たちが忍耐し、正しく焦点をおかなくてはならないのはそこなのです。丘を登りきるよりも走って下るほうがずっと簡単です。走って下るには、目標志向である必要が殆んどありません。脚が勝手に動いてくれます。しかし走って上るには忍耐が必要であり、目標に集中することが必要です。そうしなけれえば、あなたはちょっと疲れたら、競走を投げ出して道端に座り込み、あなたの人生をそこで費やしてしまうことになるかもしれません。種を蒔く人の譬えでは最後3つのカテゴリーの人たちがよいスタートを切りましたが、最後のカテゴリーの人だけが丘を走って上り続けることを選びました。その人たちが「良い土地に落ち…立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たち」なのです(ルカによる福音書第8章15節)。彼らは立派な善い心で御言葉を聞いた後、忍耐して実を結びました。キリスト・イエスによって神が上へと召してくださり与えてくださる賞を目標として定めてください。何が必要とされても、神を喜ばせること、イエス・キリストの立派な兵士となることを目標として定めてください。あなたは調べて神が善い方であるのが分かったのです。ですから、あなたの人生を神に集中させてください。

競走:競争相手

先に見たように、キリスト教徒の人生は戦いとして描かれています。また、先にガラテヤの信徒への手紙でも読みましたが、彼らはよく走っていたのに誰かが競争の邪魔をしたことも見ました。誘惑や、富の欺き、この世の煩い、人生における快楽によって、種を蒔く人のたとえ話中の二番目と三番目のカテゴリーの人たちが実を結べなくなったことも見ました。また、同じ譬えの中で、最初のカテゴリーの人たちは、悪魔がきて取っていってしまったので、蒔かれた神の御言葉を失くしてしまったことも分かります。上記のことから、その競走が一人で走る競走ではないことが明らかであるはずです。この競走には競争相手もいます。私たちに競走をうまく走り終えて欲しくないと思っている誰かがいるのです。彼は私たちの目的に反対し、私たちを目標に到達させたくないと思っています。別の言葉で言えば、敵がいるのです!

エフェソの信徒への手紙第6章にこの敵との私たちの苦闘についてが語られています。

エフェソの信徒への手紙第6章10節から12節
「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」

この箇所は、それに続くくだりとともに、私たちと敵の間の闘争について説明しています。パウロはすぐにその闘争の説明を始めてはいません。代わりに、彼は招きを以って始めます。 主に依り頼み、その偉大な力によって強くなるようにという招きです。主のような方はおられません。敵を上回ることができるのは私たちの力ではありません。それは神の力であり、私たちはこの力によって強くならなければなりません。そして、その招きは続けて私たちに神の武具を実につけるようにと呼びかけています。闘士に武具があるように、私たちにもイエス・キリストの兵士としての武具があります。そして武具には目的があります。私たちが悪魔の策略に対抗して立つことができるようにです。敵とは悪魔であり、彼は狡猾です。聖書は続けて、私たちが誰を相手に戦うのかを告げています。人が相手ではなく、血肉が相手ではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者が相手です。私たちは、天にいる悪の諸霊を相手に戦います。よって、私たちが対抗して立たなければならない敵がおり、戦わなければならない戦いがあり、身につけなければならない武具があるのです。

14節から18節にこの武具の説明があります。

エフェソの信徒への手紙第6章13節から18節
「だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」

神は私たちが敵に対して戦えるように、私たちが取り上げ、身につけなければならない武具を与えてくださっています。 競走におけるわたしたちの競争相手に関して、さらに説明と指示がペトロの手紙一第5章8節から11節でも与えられています。そこにはこう書いてあります。

ペトロの手紙一第5章8節から11節
「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。力が世々限りなく神にありますように、アーメン。」

悪魔は私たちの敵、反対者です。彼は探し回っていますが、その目的は残忍です。彼は私たちを食い尽くしたがっています。だから神の御言葉は私たちに身を慎んで目を覚ましているようにと命じるのです。マシュー・ヘンリ注解書にこの二つの語の注解があります。

「彼ら(キリスト教徒)の義務は、1. 身を慎むこと、そして節制、謙遜、禁欲の法則により外なる人も内なる人も両方治めること。2. 目を覚ましていること-安心していたり不注意でない。むしろこの霊の敵からの絶え間ない危険に疑いをもち、その理解のもと、敵の計画を阻み、我々の魂を救うために、注意深く熱心であること。」

私たちは正しい目的に集中しなくてはいけません。目を覚まして注意していなくてはなりませんが、私たちの焦点は悪魔にではなく主イエス・キリストにあるべきです。私たちは、主に焦点を置いて、主を見つめながら競走を走り、それと同時に、敵のために身を慎んで目を覚ましている必要があります。私たちは敵に抵抗し、信仰にしっかり踏みとどまる必要があります。これは、私たちが暫らくの間、苦しまなくてはならないかもしれないことを意味するかもしれません。これと、また、先のテモテへの手紙からのくだりからも、キリスト教徒の人生には確かに苦悩や困難があることが明らかになります。確かに戦いがあり、確固たる意志の強さが必要とされます。それは、わたしたちキリスト教徒との歩みには、時に苦しまなくてはならないことがあることを意味します。なぜ私はこれらすべてのことを話すのでしょうか。私は現在何らかの理由でキリスト教徒としての歩みに落胆している人たちや、苦しんでいる人たち、また神に期待していたことがまだ得られていないように思っている人たちに焦点をあてています。あなたは戦いの真っ最中にいますが、神があなたとともにいてくださいます。ペトロが「キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。」(ペトロの手紙一第4章16節)と言ったとおりです。また、ヤコブも「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。」(ヤコブの手紙第1章12節)と言いました。わたしは今日あなたに試練を耐え忍ぶよう励ましたいのです。これは、何事も起こっていないかのようなふりをするということではありません!私たちは心が傷ついているかもしれないし、疑問があるかもしれないし、なぜ神がこれを全てお許しになったのかと不思議に思っているかもしれません。私たちは自分の気持ちを正直に神に表さなければなりません。神に問いかけ、どう感じているかを伝えるべきです。私たちは、心が傷や落胆でいっぱいなのに、無傷を装ってただ前進するようにはされていません。ヨブは正しく生きていた人でしたが、それでも突然彼の身に破滅がやってきました。健康が急激に衰えました。子どもたちが死にました。持ち物を全てなくし、信仰を保っていることで妻に嘲笑されていました。その上に、彼の友人たちは、ヨブの身に起こったことで彼を責めていたのです。これよりもひどい組み合わせを誰が考えられたでしょうか。ヨブは死にたがっていました。その状況になったら私もそうなるかもしれません。しかし、彼はどう反応したでしょうか。彼は強ぶりもせず、妻に言われたように神を呪うこともしませんでした。その代わりに、彼は心を開いて主に向かって叫ぶと同時に、主に問いかけました。彼の書は神に向けられた「なぜ」と疑問であふれています。あなたも多く苦しみ、たくさんの「なぜ」を抱えているかもしれません。あなたが期待していたことが起こらなかったかもしれません。実現しない希望ほど悪いものはほぼありません。神がこれをしてくださるという希望があるのに、まだしてくださらない。仕事が得られなかったことかもしれないし、結婚相手がいないことかもしれないし、健康が回復されなかったことかもしれません。 希望が実現しなかったのです。それが何であれ、それは試練です。それが何であっても、あなたは心を閉ざしてはいけません。それが何であれ、それについて主に打ち明けなくてはいけません。主に問いかけてください。主に向かって叫んでください。主とコミュニケーションをとってください。全ての苦しみにあって、ヨブは妻に言われたように神を冒涜することはありませんでした。彼は「神はわたしを殺されるかもしれない。だが、ただ待ってはいられない。わたしの道を神の前に申し立てよう。」(ヨブ記第13章15節)と言いました。恐ろしいほどの苦しみにあっても、また神との議論の中でも、ヨブは忠実でした。ヨブがしたように、神との交わりで神に質問をするのと、神を拒絶するのとは別のことです。ヨブは痛みでいっぱいでしたが、実際には試練に耐えました。彼の妻も、もともと彼女に信仰があったのかどうかは分かりませんが、 痛みでいっぱいでしたが、彼女は耐えませんでした。彼女は良い日々には神に希望を持っていたかもしれませんが、苦しみの日々がくると迷い出てしまいました...種を蒔く人の譬えの二番目のカテゴリーです。けれどヨブは言いました。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか(ヨブ記第2章10節)と。ヨブには心構えがありましたし、あなたもそうでなければなりません。あなたも心構えをし、何が必要となっても、どんな苦しみ、満たされない希望、その他の何があっても、終わりまで忠実でいると決断しなくてはなりません。それは、ある考えに対する忠誠ではなく...あなたにご自身を顕してくださった神への忠誠です。何があってもその競走を終わりまで走りぬく決断をして、私たちの信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら忍耐強く走ってください!ペトロがこう言っています。

「 しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。力が世々限りなく神にありますように、アーメン。」

神の祝福をお祈りします

タソス・キオラチョグロ(Tassos Kioulachoglou )

 

日本語: Atsumi Gustafson

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