聖書の事実

神を愛するものにはすべてが協力する‐ヨセフの場合 (PDF) PDF版

神を愛するものにはすべてが協力する‐ヨセフの場合

ローマ人への手紙第8章28節にはこうあります。

ローマ人への手紙第8章28節
「そして私たちは、神様を愛し、神様のご計画どおりに歩んでいるなら、自分に起こることはすべて、益となることを知っているのです。 」

本稿の中で私は、この文章を旧約聖書のなかの、ヨセフの例から 見て行きたいと思います。

1.カナンの地からエジプトへ

まずはじめに創世記第37章に行き、その第3節を見ます。

創世記第37章3-11節
「イスラエルはヨセフを、どの息子よりもかわいがっていました。 年をとってからの子だからです。 それで、飾りつきの特別製の服を作ってやりました。こう、あからさまにえこひいきされては、兄たちもおもしろくありません。ヨセフが憎らしくて、やさしいことばなどかけられないのです。そんなある晩、ヨセフは夢を見ました。その話をさっそく事細かに話したものですからたまりません。 ますます兄たちにきらわれてしまいました。「あのね、ぼく、こんな夢を見たんだ。」 得意げに、ヨセフは言いました。「みんなが畑で束をたばねていたんだ。そしたらぼくの束が、いきなりすっくと立ち上がった。それからどうなったと思う? 兄さんたちの束が回りに集まって来て、ぼくの束におじぎをするんだ。」「じゃあ何かい、おまえがおれたちの主人になるとでもいうのかい?」 兄たちはせせら笑いました。「いつものことだが、なんて生意気なやつだ。 だいいち、あの夢が気にくわない。」そう思うと、ますます憎らしくなるばかりです。 ヨセフはまた夢を見て、兄たちに話しました。「この前また夢を見たんだけどさ、太陽と月と十一の星が、ぼくにおじぎしたんだぜ。」今度は父親にも話をしました。父親はさすがに彼をしかりとばしました。「いったいどういうことかね。兄たちはくやしくてたまりません。母さんと兄さんたちだけでなく、わしまでが、おまえにおじぎをするのかね?」 しかし、父親はいったいどういう意味なのかと、あれこれ考えあぐねるのでした。」

その後創世記第42章では、私たちはヨセフの兄弟に関する彼の夢が実現することを読みます。

創世記第42章6、9節
「兄たちは、エジプトの総理大臣で、穀物を売る責任者のところへ出かけました。 まさかその人が弟のヨセフだとは思いもよりません。 顔を地につけんばかりに深々と頭を下げました。 」…「ヨセフはふっと少年時代の夢を思い出し、…」

ここに明らかなように、ヨセフの 夢は予言的なものでした。つまりこれらの夢は神によって与えられたものであり、それによって彼の将来に起こることがらが示されていた、事実何年も経ってからのことがらの夢だったのです1。 これらのことがらははじめはとりわけ特別なことはなにもないように見えましたが、その夢が兄弟のうえに及ぼした悪い反応を考えますと不思議なものになります。事実、彼らは父が特に彼を愛したことから、すでにヨセフを憎んでいましたが、この夢によってその憎しみはさらに強くなったのでした。彼らはヨセフを憎むあまり殺そうとまで考えており(創世記37章18節)、最後にはエジプトに向かう通りすがりの商人たちに彼を売り飛ばしてしまったのです。

創世記第37章25-28節
「それから、腰をおろして夕食にしたのですが、ふと気がつくと、遠くから、らくだの一隊がやって来るところです。おそらく樹脂や香料、薬草類をギルアデからエジプトに運ぶ、イシュマエル人の隊商でしょう。「おい、見ろよ。」 ユダが叫びました。イシュマエル人が来るぞ。ヨセフのやつを売り飛ばすってのはどうだい。殺すのは、何てったって気持ちのいいもんじゃない。自分たちの手で殺したりすれば、あとでいやな思いをするだろうよ。虫の好かないやつだけど、やっぱり弟なんだからな。」 みな賛成です。そこで隊商がそばまで来ると、ヨセフを井戸から引っ張り上げ、銀貨二十枚で売り飛ばしました。 かわいそうに、ヨセフはエジプトへ連れて行かれるのです。」

ヨセフの兄弟たちの憎しみはついに、彼を父や家族から遠い、エジプトへ奴隷として売るところにまで言ったのでした。ですが主はつねに彼とともにいました。

創世記第39章1-6節
「さて、イシュマエル人の隊商に売り飛ばされたヨセフに、話を戻しましょう。彼はエジプトに着くと、エジプト王に仕える役人の一人、ポティファルに買い取られました。このポティファルという人は、親衛隊の隊長で、刑執行の責任者でした。ヨセフは主人の家の仕事をさせられましたが、いつも神様が助けてくださるので、何をしてもうまくいくのでした。ポティファルの目にも、神様がヨセフに特別よくしておられることは明らかでした。おかげで、ヨセフは主人の気に入り、家の管理、財政を任されるようになりました。すると、どうでしょう。神様がヨセフによくなさるので、ポティファルの家も祝福され、仕事は万事スムーズに運び、収穫も、羊の群れも増える一方でした。喜んだポティファルは、全財産の管理をヨセフに任せることにしました。ヨセフさえいれば、何の心配もありません。といっても、自分が何を食べるかまで、ヨセフに決めさせたわけではありませんが……。 」

主はヨセフとともにおられて、彼を祝福なさり、ポティファルの家ですることはなにもかもその地位を確立してくださいました。彼の主人は自分の家の管理人とし、すべてを彼に任せてくれました。ですが劇的な変化がまだありました。

創世記第39章6-15節、19‐20節
「ところで、ヨセフはたいへんハンサムな青年でした。 そのころ、困ったことが持ち上がりました。事もあろうに、ポティファルの妻がヨセフに目をつけたのです。いっしょに寝ようと、うるさく誘いかけます。そこで彼は主人の妻に言いました。「 しかし、ヨセフは耳も貸しません。「だんな様は家のこといっさいを私にお任せになりました。9家では、私のすることに、決して口出ししたり、指図したりなさいません。何もかも私の自由にさせてくださいます。ただ奥様だけは別ですが……。これほどまでにしていただいて、どうして、そんな大それたことができましょう。だんな様ばかりか、神様にまで背くことなんかできません。」 このようにして彼女は毎日ヨセフに迫りますが、ヨセフは彼女の言うことなど聴かず、一緒に寝ることもしませんでした。ですがある日ヨセフが自分の仕事のために家の中に入りまわりにひとがいないとき、彼女は彼の衣をつかみ「自分と寝なさい」といいました。彼はその衣を彼女の手に残したまま外に逃げ去りました。何事が起こったのかと、男たちが駆けつけると、彼女がヒステリックに泣いています。「うちの人があんなヘブル人(イスラエル人)の奴隷なんか連れて来るからいけないのよ。おかげで危ない目に会うところだったわ。とてもひどいことをしようとするんですもの。私、大声で叫んでやったわ。そうしたら、あわてて上着を置いたまま逃げ出したのよ。」 彼女は上着を手もとに置き、その夜、夫が家に帰ると、昼間の出来事を話しました。「うちで仕事をさせていらっしゃる、あのヘブル人の奴隷ですけどね、きょう私にひどいことをしようとしたんですのよ。大声をあげたから助かったものの、でなかったら、どうなったかわかりませんわ。あの男ったら、あわてて上着を残したまま逃げ出したりして……。 これがその上着よ。」 夫がかんかんに腹を立てたのは、言うまでもありません。真相をよく調べもせず、すぐさまヨセフを捕らえ、牢に放り込んでしまいました。 王の囚人が入れられる牢です。 」

ちょうど人生が安定しかけた頃、ヨセフには別の陰謀が起こり、牢獄につながれる身の上になってしまったのでした。ですが主はここにもヨセフと一緒にいてくださり、彼に慈悲をくださったのです。

創世記第39章20-23節
「真相をよく調べもせず、すぐさまヨセフを捕らえ、牢に放り込んでしまいました。王の囚人が入れられる牢です。21しかし、神様は牢の中でさえヨセフとともにいて、何かにつけてよくなさるのでした。それで、ヨセフは看守長のお気に入りになりました。22この男なら大丈夫と見抜いた看守長は、やがて、牢内の管理をいっさいヨセフに任せることにしました。囚人全員のめんどうをヨセフが見るのです。23それからというもの、看守長は何の心配もなくなりました。 万事ヨセフが取り仕切ったからです。神様がついておられるので、何もかもスムーズに事が運ぶのでした。 」

主は牢獄の中でも、ポティファルの家のなかで、そしてカナンの地でと同じように、ヨセフとともにいてくださいました。主は彼に慈悲と好意を示してくださいました。ですがここで私たちは自分をヨセフの立場において見ましょう。彼は神が与えてくださった夢のために父の家から追い出されました。エジプトに奴隷として売られましたが、彼の主人はその妻にだまされて彼を牢獄に入れました。彼はただひとり、奴隷として自分が選んだのでない国の監獄にいました。このような立場はとうてい「恩寵に満ちた」状態とはいえません。ですが、主は彼とともにいました。主はともに彼のもとにいて慈悲を示されました。ここが大切なところです。ヨセフと同様、私たちもしばしば自分のいるところ、自分に起きたことがらが理解出来ない場合があります。ですがそのことは重大ではありません。大切なのは主は私たちとともにいてくださるということです。主が言われたように「そして私たちは、神様を愛し、神様のご計画どおりに歩んでいるなら、自分の身に起こることはすべて、益となることを知っているのです(ローマ人への手紙第8章28節)」。 私たちが主を愛するならすべてのことがらは、たとえよいものには見えなくても、そして私たちには十分理解できないことでも、すべて益となるのです。ヨセフに話を戻しますと、第40章1-8節にはこうあります。

創世記第40章1-8節
「その後しばらくして、王宮のコック長とぶどう酒の毒味役とが、王のきげんをそこね、牢に入れられました。 親衛隊の隊長で刑執行の責任者ポティファルの邸内にあった牢、ヨセフが入っている、あの牢です。しばらくの間、二人はそこに閉じ込められていました。ポティファルはヨセフに、彼らの世話をするよう命じました。ある夜、二人は夢を見ました。翌朝ヨセフが行くと、二人とも元気がなく、うなだれています。「どうなさったのです。 何か心配事でも?」「実はゆうべ二人とも夢を見てね、その意味がさっぱりわからず、困っていたんだ。」「夢を解釈するのは神様です。で、どんな夢です? よろしければお聞かせください。」

「夢を解釈するのは神様です」ヨセフはいいました、すべての解釈がそうなのです。そこでふたりのエジプト人はヨセフに自分の夢を語り、彼はそれを解釈しました。これは夢には意味があり、つまり夢は神から来る(主こそが解釈を与える)ということなのです。この解釈によれば、ふたりのうちひとりは死刑にされ、ひとりはもとの職に戻されるのです。ヨセフは戻されるほうに、自分のことを王に口ぞえしてくれるよう、覚えておいてくれと頼みました。

創世記第40章14-15節
「その時は、私のこともよろしくお願いします。また王様のお気に入りの地位に戻るのですから、じきじきに私のあわれな身の上を話し、ここから出られるようお口添えください。私はもともとヘブル人ですが、誘拐されてここへ来たのです。そして、無実の罪で、牢に入れられてしまったのです。」

ですがそのひとは自分が職に戻ると途端に、ヨセフのことなど忘れてしまったのです。

創世記第40章23節
「ところが、毒味役はあまりうれしくて、ヨセフのことなどすっかり忘れ、王に口添えするどころではありませんでした。 」

上記を要約しますと、それはなにも悪いことをしないのに迫害された人間の物語です。そして長い間多くの「なぜ」に取り囲まれて生きながら、答えはあまり得られなかった人間の物語です。ですが主はつねに彼とともにいてくださいました。兄弟は神が彼に与えてくださった夢のために彼を憎み、エジプトに奴隷として売ってしまいました。エジプトの彼の主人は、彼が自分を護るためにしたことのために、自分の妻の偽りによって彼を牢獄に入れました。また毒見役の高官は自分の職に復帰したとたんに彼のことなど忘れてしまいました。これらすべてになにかいいことがあったと考えたり、この善人に起きたことがらの意味を理解するのは困難です。ですが理解は欠けていたとしても、ヨセフには神に対する信仰がありました。神を恐れる彼は、ポティファルの家でも罪は犯しませんでした。彼はふたりのエジプト人の夢を解釈し、神の名を大胆に唱えました。たとえ理解できなくても、だからといって神を信頼することはやめませんでした。あなたもまた、たとえ自分に起きたことがらが理解できなかったとしても、そのような理解の欠如を自分の信仰の障害としてはならないのです。神を愛するものたちにとって、すべては益として働きます、そしてこのことがらはあなたにとっても、ヨセフにとってと同じ真実なのです。

2. ヨセフ 牢獄から宮殿へ

先に進んで第41章を見ます。すると別の、今度は王が見た夢の話しがあります。

創世記第41章1-14節
「それから二年後のある夜、今度は王が夢を見ました。ナイル川のほとりに立っていると、とつぜん川から丸々と太った雌牛が七頭出て来て、あたりの草を食べ始めるのです。次に、また別の雌牛が七頭出て来ます。骨と皮ばかりで、あばら骨が浮いて見えるような牛ばかりです。それが、歩いて行って太った牛の隣に立ったかと思うと、その太った牛を食べてしまったのです。そこで目が覚めました。 やがて、またうとうと寝入ると、別の夢を見ました。今度は、一本の茎に穀物の穂が七つ出て来るのです。一つ一つはみな形も良く、実がいっぱいに詰まっています。ところが突然、同じ茎にまた別の穂が七つ現われました。 どれもこれも熱い東風にやられてちりちりに焼け、実がはいっていません。なんと、このしなびた穂が、実のたっぷりはいった形の良い七つの穂を、のみ込んでしまったのです。そこでまた目が覚めました。ぜんぶ夢だったのです。夜が明けると、王はあれこれ考えましたが、考えれば考えるほど、夢のことが気になってしかたありません。国中の魔術師や学者を呼び集め、夢の意味を説明させようとしました。しかし、だれにも何のことかわかりません。その時、王の毒味役が口をはさみました。「実は、うっかりしておりましたが、とうに申し上げておかなければならないことがあったのです。いつでしたか、王様がお怒りになって、私とコック長とが、親衛隊長の屋敷内の牢に入れられたことがございました。ある夜、私どもは夢を見たのです。その夢を、隊長の奴隷だったあるヘブル人の青年に話しましたところ、夢の意味をちゃんと説明してくれました。そして何もかも、そのとおりになりました。私はお赦しを得てお毒味役に復帰できましたし、コック長は死刑にされ、柱につるされてしまいました。」 これは耳寄りな話です。王はすぐさまヨセフを呼びにやりました。さっそく地下牢から呼び出されたヨセフは、急いでひげをそり、服を着替えて王の前に出ました。」

毒見役がヨセフのことをついに思い出したのは、あれから2年も経ったときでした。ひとは思うでしょう。「なぜヨセフのことを初めから思い出さなかったのか、2年も経ってからで、その間彼はずっと牢獄にいたんじゃないか?」ですが答えは簡単です。これが神の御意志だったからなのです。私たちはなにもかも素早く行われる時代にすんでいます。ですが神はすべてをベストに行うよう望んでおられますから、早いなどということは必ずしもベストではないのです。したがって王が主からの夢を受け取るためには、牢獄での2年がさらに過ぎなければなりませんでした。ヨセフは解釈を与えるときこのように言いました。「神様が、これからエジプトでなさろうとしていることを、お告げになったのです」(創世記第41章25節)。これらの夢を王に与える時期を選ばれたのは主なのでした。すこし時計の針を戻しますと、2年前、ふたつの夢を王の高官たちに与え、ヨセフを通してそれを解釈させたのは主でした。主はヨセフをポティファルの家に置き、そこで起きるべきことがらが起き、最後に王の牢獄に入るようになさったのはすべて主でしたfn 。兄弟が彼をエジプトに奴隷として売り飛ばすほど憎むもとになった夢をお与えになったのも主でした。ここまで読んだ私たちは、少しずつ神のご計画が理解できるようになりましたが、もっと読めばさらによくわかるようになるでしょう。 そこでヨセフは、主のお使いを通して夢を王に説明しました。エジプトは7年の豊作を迎えるが、その後は7年の飢饉になる、と。ヨセフはまたこの状況にどのように対応すればよいかも告げました。

創世記第41章37-45節
「ヨセフの提言に、王もお付の者たちもうなずきました。では、この仕事の責任者をだれにしたらよいでしょう。一同が相談を始めると、王が言いました。「ヨセフがよい。彼は神様の特別の力をいただいておる。まさにうってつけではないか。」 そして、ヨセフの方に向き直り、こう続けました。「夢の意味を神様がおまえにお示しになったからには、おまえがわが国でいちばんの知恵者に違いない。したがってわしは今、おまえをこの仕事全体の責任者に任命する。何でもおまえの命令どおりすることにしよう。この国でおまえの上に立つ者は、わしだけだ。王は自分の印の入った指輪を、権威のしるしとしてヨセフの指にはめ、美しい服を着せて、首には王様用の金のペンダントをかけてやりました。「おまえをエジプトの総理大臣に任命する。王の私がそう宣言する。」 王はまた、国で第二の地位にあることを示す車を、ヨセフに与えました。 ヨセフがどこかへ出かける時は、必ずだれかが、「総理大臣閣下のお通りーっ!」と叫ぶのです。王はヨセフに言いました。「エジプトの王であるわしが誓う。 わが国を治める全責任をおまえにゆだねる。」 王はまた、ヨセフにエジプト名を与えました。「生死をつかさどる神様のような権力を持つ者」という意味の名です。 また、ヘリオポリスの祭司〔当時の有力な宗教的・政治的指導者〕ポティ・フェラの娘アセナテを、妻として与えました。たちまち、ヨセフの名はエジプト中に知れ渡りました。この時、彼は弱冠三十歳でした。王の前から下がると、さっそく国中の巡察を始めました。」

数分のうちにヨセフは牢獄の奴隷から、総理大臣になったのでした。彼はエジプト中で王に次ぐ第二の指導者となったのです。これはだんだんにそうなったのではなく、素早く実現したことでした。もしあなたが不快な状況、本当に取り除いてしまいたい状況の中にいるのであれば、主はあなたをそこから出してくださいます。主はそれを数分のうちに逆転させてしまうことが出来ます。たとえば私たちが携挙の時に主がなさるように。それは「一瞬のうちに、そうなるのです。」(I コリント人への手紙第15章52節) 。あなたは目を閉じ、地上にいてなにか、もう何年もしている、ごく普通のことをしており、そして目を覚ましますとその体は空中にあって、主イエスとそのすべての聖人とともにいるのです。それはほんの数分のうちにおきるのです! 神はそれを行う力がおありで、それを正しいときになさいます。そのときはヨセフのもとにやってきました。彼は多くのことがらを乗り超えましたが、主はいつも彼のもとにありました。彼が超えたことがらは偶然におきたのではありませんでした。それは主の計画の一部であり、それが彼を王の下に連れてきたのです。最後を除いては、ヨセフの人生に起きたことがらの良さを理解することは出来ません(そして私たちはすべてを見たのではありません)。それはたぶんヨセフにとっても同じだったでしょう。最後を見ないでは理解することは出来なかったには違いないけれど、彼は信じることが出来なかったわけではありません。あなたは理解力は弱いかもしれませんが、今日生きるための、神の言葉のすべてを信じる力が弱いわけではありません。つまり、あなたが理解するとしないにかかわらず、神を愛するならば、すべては益に働くのです

ヨセフにもどりますと、彼が全エジプトで王に次ぐ権力者になったことは、主の計画の終わりではありませんでした。7年の飢饉がやってきたとき、それは彼の家族の住む地にも影響をもたらしました。

創世記第41章56-57節、42章1-3節、6-9節
「ききんはますますひどくなり、全世界をおおい尽くす勢いです。ヨセフは倉庫を開け、穀物をエジプト人に売ることにしました。ヤコブはエジプトには穀物があることを知り、息子たちに「どうしてお互いを見ているのか?」エジプトには穀物があるというではないか、行って買ってきなさい、そうすれば私たちが飢えることはないでしょう。そこでヨセフの10人の兄弟たちはエジプトに行きました。兄弟たちはヨセフの前に現れ、額を地面につけてお辞儀をしました。ヨセフは兄弟たちを認めましたが他人のように振る舞い、きつい言葉を投げかけました。「御前たちはどこから来たのか?」 彼らは自分たちはカナンの地から、食物を買うために来たといいました。ヨセフは彼らを認めましたが、彼らにはヨセフがわかりませんでした。ヨセフは彼らの出てきた夢のことを覚えていたのでこういいました。「御前たちはスパイだ。 御前たちは土地が裸になっているところを見に来たのだろう。」

何年か前、主は兄弟たちが自分に頭を下げている夢をふたつくださいました。それは兄弟が彼を憎み、エジプトに売るもとになった夢でした。それ以来はじめて、この夢の実現によって彼らはお互いにまた出会ったのでした。ですがヨセフは兄たちの前に自分をすぐ打ち明けず、知らぬ振りをして彼らをスパイだと非難したのでした。そして3日間彼らをとどめ置いた後再び呼び出し、ベニヤミンを連れてくるように、連れて帰るまで兄たちのひとりはエジプトに留め置くといいました。これは兄たちを悲しませました。それは何年か前に自分たちがしたことが、今起きていることがらの原因なのだと知ったからです。彼らは自分たちがヨセフの目の前にいるとは知らぬまま、自分たちのしたことの罪を告白したのでした。

創世記42章21-24節
「 彼らは互いに言いました。「昔、ヨセフにひどいことをしたからなあ。こんなことになったのも、罰があたったんだ。あいつはこわがって必死で助けを求めたっけなあ。なのにおれたちは、まるで知らん顔をして、耳を貸そうともしなかった。」 ルベンが口を開きました。「だからやめろと言ったんだ。それをおまえたちときたら、てんで聞こうともしなかった。おかげで今は、自分が死ぬはめになったというわけだ。」 もちろん彼らは、そばに立っているエジプトの総理大臣がヨセフで、話がつつ抜けになっているとは夢にも思いません。 それまで通訳つきで話をしていたからです。ヨセフはとてもいたたまれません。 部屋を出て一人きりになれる場所を捜し、そこで泣きました。 」

最後にヨセフが兄弟たちを見たのは、何年も前、みなが自分をエジプトに売ったときでした。つぎに彼らに再び会ったのは夢が実現して、売ったこと、売ったことに対する罪の告白のときでした。ヨセフはいま、兄弟たちはそのことをざんげしたことを知りました。 彼らはそれを自分の前で告白したのです! 主はものごとをアレンジし、永年にわたる心の傷や誤解を、数分のうちに癒されるようになさったのです!

ヨセフは兄たちがカナンの地に戻ってベニヤミンを連れて来るまで、シメオンを留め置きました。そして連れてきた後、彼らを行かせましたがすぐに呼び戻し、銀のカップを自ら、わざとベニヤミンの袋にしのばせ(創世記第44章2節)たうえで、それを自分から盗んだと非難しました。そしてベニヤミンはエジプトに奴隷として残るよう命じました。これを聴いた兄弟たちは彼の前にひれ伏してベニヤミンのために懇願しました(創世記第44章14‐34節)。つぎを読んで見ましょう。

創世記第45章1-8節
「ヨセフはもうこれ以上がまんできませんでした。「みんな下がっていろ!」 大声でお付の者に命じました。あとには、兄弟たちとヨセフだけが残りました。 そのとたん、こらえきれなくなって、あたりはばからず男泣きに泣きだしました。泣き声は屋敷中に聞こえ、その知らせがすぐ王の宮殿にまで伝えられるほどでした。「兄さん、ヨセフですよ。 ほら、よく見てください。 お父さんは元気ですか。」 びっくりしたのは兄弟たちです。あっけにとられて、口をきくこともできません。「さあさあ、そんな所にいないで、ここへ来てください。」 そう言われて、一同はそばへ寄りました。「お忘れですか。ヨセフですよ。あの、エジプトへ売られた弟ですよ。だけど、そのことで自分を責めないでください。 何もかも神様のお取りはからいだったのです。私がここへ来るようにしたのも、ほんとうは兄さんたちでなく神様なのです。こんなふうに兄さんたちを助けることができるようにしてくださった。もうこれで丸二年もききんが続きましたが、まだまだ収まりませんよ。あと五年はこのままです。その間は、種まきもできないし、収穫もありません。それでも私たち一族が滅びず、やがて大きな国になることができるように、神様が私をここに遣わされたのです。そうです。 決して兄さんたちのせいではありません 神様のお導きです。神様は私を王の顧問にし、この国の総理大臣にしてくださいました。」

創世記第50章20節
悪意から出たことでも、神様はちゃんと良いことに役立てられるんです。 私のような者が今日あるのもみな、神様の深いお考えがあってのことだったのです。 たくさんの人のいのちを救うためなんです。

上の引用で、私は…のために、と言う部分を強調しました。これらは答えを引き出すものだからです。これは「なぜ」に対する答えです。それは答えのときだったのです。それはヨセフとそのエジプトにおける使命に関する神の計画が完全に示現されるときでした。それは何年も昔の夢、兄たちが彼を憎むもとになった夢に始まりました。ですが彼の兄弟たちとその行動は、神が御意志を実現させるための道具だったのです。ヨセフをエジプトに使わせたのは兄弟たちではなく、神でした。彼をポティファルの家に置き、そこから牢獄につれて行ったのも神でした。王のふたりの高官に夢を見させ、ヨセフを通じてそれを解釈させたのも神でした。それから2年後に王に夢を与え、それを通じてヨセフを宮殿に連れてきたのもまた神でした。神はヨセフにその夢の解釈を与え、彼がエジプトで国の第二の重要な地位につくようにしたのも神でした。彼の兄弟をエジプトに連れてきて彼の前で罪の告白をさせたのもそうです。神はまたイスラエル人すべての命をも救われました。事実イスラエルは数世紀後の出エジプト記のときまで、神の言葉によって出るまでエジプトを去りませんでした。神はご自身の計画をイスラエル人のために持っておられ、ヨセフにおきたことがらはすべて益となって働いたのです。はじめはそのようには見えませんでしたが、ずっとあとになってその全体の計画は完全に明かされたのでした。

タソス・キオラチョグロ(Tassos Kioulachoglou)

日本語: Tsukasa Ugaeri

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