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神から選ばれる:予定説の教義への考察 (PDF) PDF版

神から選ばれる:予定説の教義への考察

予定説と自由意志説。これはキリストの教えのなかに横たわる、いつまでもつきない長い課題といえるでしょう。神はすでに救う人をお選びになっており、それ以外の人は救われない、と多くの方がおっしゃっているようです。この誰が救われ、誰が救われないかとい予定説の視点から見れば、誰かが御言葉を教え、その結果として人が御言葉を信じるようになった場合、誰が御言葉を教えたかという点は大した問題ではなくなります。もちろん、御言葉を伝えることは大変重要ですが、元々神がその教える人を教える人として「予定」にいれ、「お選び」になったからこそ、御言葉を伝えることができた、ということになります。そして、もし神が「予定」に入れず、「お選び」になっていなかったのなら――選ばれなかった他の誰かでなく、その人が選ばれたという意味で――、御言葉は伝えられず、誰も救われなかったでしょう。このように、予定説の視点から見ると、誰が救われるかが「予定」され、前もって選ばれていたかどうかは、すべて神次第ということになります。神が救うようお選びになった人々は救われ、選ばれなかった人(実際、神が救いを拒否されたという意味となります)は救われません。神がお救いになる人々をすでに選ばれているという予定説は、救いへの責任を神へと転嫁させる大変便利な教義です。もし御言葉を人に伝えることに抵抗をお持ちなら、それ程思い悩むことはありません。予定説からすれば、神はそのことをご存知で、あなたの前に救われるべき人を送られることはありません。あなたが伝えなくても、結局救われる人は救われるのです。このように予定説では、すべてが神次第なのです。このような教義は便利かもしれません。しかし、わたしは個人的に、これは非常に間違った危険な教義であると思っています。なぜなら、少なからずであっても、この教義は多くの方を福音伝道に対し消極的にしていると思うからです。つまり、この予定説から見れば、結局救われる人は救われますから、福音を宣べ伝えることに責任感を感じないのです。わたしはこのような考え方に全く賛成できません。聖書によれば、神は御子をすべての人間に対してお与えになりました。神がなさる救いの選択は、全人類だと信じています。逆に言えば、神が誰を救い、救わないといった選択をされるという考えは、正しくないのです。

救い:神がすべての人々のためになさった選択

救いへの御心を知るため、まずはテモテへの手紙一第2章4節から見てみましょう。

テモテへの手紙一第2章4節
「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」

神は誰を救われたいのでしょう?救いへの御心は?神がお望みになり、切望されていることは?上の聖句で語られているように、神の願い、御心はすべての人々が救われることなのです!「すべての人々」とは全人類です。 神は誰かを選んでその人々にだけ御子をお与えになり、他には与えなかったということはされませんでした。神は地球上すべての人々のために御子をお与えになったのです。そして神はその地球上すべての人々が救われることをお望みなのです!これが神が宣言された御心、願望、望み、選択なのです。ここで同じ手紙の5節と6節を見てみましょう。

テモテへの手紙一第2章5節から6節
「神は唯一であり、神と人との間の仲保者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しにほかならない」

イエス・キリストは誰の贖いとして御自身を献げられたのでしょうか?兄弟姉妹の皆さん、一部の人々のためではありません。すべての人々のために献げられました。イエス・キリストはすべての人が救いを受けるため、この代償を払ってくださったのです。神がすでにお選びになった一部の人々にだけに御子をお与えになり、そして残りの人々には与えないことを選ばれた(つまり拒否された)という考えと、全く矛盾すると思いませんか?例えば、あなたが監獄を訪ね、すべての囚人を愛し、払える限りの代償金を支払って――神は御子を代償とされわけですが――囚人を自由の身にしたとします。 あなたは何人の囚人を自由にしたいのでしょうか?おそらく全員でしょう。そして監獄に残ることを選んだ囚人が何人かいたとします。どのように感じますか?とても残念で悲しくならないでしょうか? あなたは支払える限りの代償を囚人のために支払ったのです!全員に自由になって欲しいのです!残ることを選んだ囚人がいたら、わたしは残念でなりません。それは神も同じでしょう。神は御子をお与えになったのです。神は支払える限りの最大の代償を、すべての人々のために支払ってくださいました。そしてどうでしょう、神はすべての人々のために神がご準備くださった自由を、人々が受け入れることを望まれています。神はすべての人々に自由になって欲しいのです。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました」(コロサイの信徒への手紙第1章13節)。

ここに有名な節、ヨハネによる福音書第3章16節があります。とてもよく引用される節です。

ヨハネによる福音書第3章16節から18節
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」

神は世を愛された(わたしたちの例で言う囚人です。神は全囚人を愛されました。一部ではありません)。そして全世界、全人類のために御子をお与えになりました。なぜでしょうか?「御子によって世が救われるであろうためである」。神が御子をお与えになった時、神は世界の一部だけに与えることが目的ではありませんでした。全世界になのです!神は何人かの囚人だけを解き放つことはお望みにはなりませんでした。全囚人の自由を望まれたのです!救いはすべての人々への神の選択で、神は代償をそれぞれ、すべての人のためにお支払いになったのです。地球上に神の選択から外れた人など一人もいません。

選ばた民という御言葉はなにを意味するのでしょうか?

選ばれるとは、誰かがあなたを選んだ、つまりあなたがその人の的という意味になります。これまで見てきたように、全人類が救われることが神が宣言された御心であり、そのために神は御子の命をもって必要な支払いをなさいました。今、神は全人類が救われることをお望みです。つまり、神の選択は全人類が救われることなのです。逆に、もしこれが神のご選択ならば、神の全人類に対する御心とは、また救いにおいて、すべての人々はどのような立場に置かれているのでしょうか?選ばれたものとなっているのです。言葉を変えますと、御言葉がわたしたちを選択し、選ぶと言うとき、それは選ばれなかった人との関係性をもって選ばれたという意味ではありません。すべての人々が救われることを選ばれました。これが主の選択であり、全人類に対する神の御心です(全員が神の申し出を受けるわけではないことは、明白ではありますが)。御言葉がわたしたちを選ばれた、というとき、それは救いの対象として選ばれたということになります。救いは神の選択、全人類にたいする神の御心です。全人類が救いの対象に選ばれているのです。しかしながら、その全員がこの申し出を受け入れるわけではなく、その結果として神の救いから外れる人も出て来ます。その人が救いから外れたのは、神がそのようにお選びにならなかったからではありません。神の選択を拒絶した人々が、自分でそうなることを選択したのです。神が救われない人々を選択して、わたしたちを救うとされたのではありません。わたしたちが救われたのは、神がすべての人々へ与えた選択を、わたしたちが受け入れたからなのです。 このように、救いとは信仰の問題なのです。これは人々の神への選択であり、神が人々を選ぶというものではありません。神の御心には、どのような疑問もありません。神は人類を救うことをお選びになり、達成されるために御子をお与えになりました。聖書から以下の聖句を見てみましょう。

使徒言行録 第10章43節
「この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる」

ローマの信徒への手紙題9章33節、10章11節
「主を信じる者は、だれも失望に終わることはない」

ヨハネの手紙一第5章1節
「イエスがメシアであると信じる人は、神から生まれた者です」

ヨハネの福音書第11章26節
「生きてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」

ヨハネの福音書第3章16節
「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」

ヨハネの福音書12章46節から48節
「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」

これらの聖句の「だれであっても」という語句を見てください。だれでも――なんぴとなりとも――、どのような人であっても救われるのです。救われる、救われないは信仰によるものとなります。それが神の選択、自分に対する御心であり、救われると信じるのなら救われます。ですが信じないことを選ぶと救われません。このように、これは神の選択、御心ではなく、人間自身が行なった選択の結果起こること、とても単純なことなのです。

まとめますと、二種類の選択肢があります。一つは二人から一人を選ぶ選択。つまり、わたしはあの人でなくて、あなたを選びます、という選択です。この視点、そして選択の教義から見れば、神はわたしたちを選び、他の人々を拒絶されたことになります。神は、わたしたちクリスチャンの救済をご計画され、他の人々を救済されないことになります。このような視点は正しいのでしょうか?いいえ、上記の聖句にあった神の願望のように、神の選択は、すべての人々が救われること。そしてその目的のために御子をすべての人々のためにお与えになったのです。エフェソの信徒への手紙第1章3節から7節で「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」と語られているように、救われない人があっての選択、ご計画ではありませんでした。救いにおいて、神が御子をお与えになったとき、全人類に同じ選択を施されました。例で用いた囚人のように、全員の自由を選ばれたのです。では、わたしは、元囚人の方々に自由という申し入れを提示し、「あなたは自由の身となるよう選ばれました」「わたしはそう計画したのです」「あなたがわたしの選んだ人です」と発言してもいいのでしょうか?もちろんそれは当然の権利です。しかし、それは決して、その私の申し入れを拒否し監獄に留まることになった囚人と対比させて「選んだ」いっているわけではありません。監獄に留まることになった囚人の自由も、私の選択だったのです。実際、神はわたしたちをお選びになりました。ですが他の人と比較してお選びになったのではありません。神は誰なら救われる、誰ならそうでないと、人々を選別したりはなさらないのです。もし神がそのように選択されるのであれば、神は人を分け隔てされる方となりますが、神はそのようなお方ではありません

使徒言行録第10章34節
「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」

求める人のもとには、神はなんぴとのもとにもいらっしゃいます。神は自分を求めている人々をお探しになり、その前にご自身を啓示されます。

詩編 第14章2節
「主は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と」

そして申命記第4章29節
「しかし…あなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう」

人が神を求め、その啓示を自身に受けようと心から求めるとき、神は必ず、100%そうしてくださいます。神こそが、人を自分へとお引き寄せになるのです。そしてこれは、特定の人だけになされることではありません。神を求めるすべての人になされることなのです。心から求める人を神はご覧になっています。そしてその人は神に出会います。時や人を選びません。それどころか、御言葉によって決められ、律法で定められていることなのです。神を心へと招き入れたとき、神は常に現れ、ご自分の元に引き寄せられます。これはヨハネの福音書に記録されいる、わたしたちが理解しておくべきことです。

ヨハネの福音書第6章44節
「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」

多くの方がこの聖句を指し、「ほら、ご覧なさい。すべては神次第。神がお望みになれば、彼の元へ人を引き寄せ、そしてもし神がお望みでなければ、引き寄せられないのです」と言っているようです。そのような解釈では、神は人を分け隔てる方となり、イエスが全人類の救済のために命を落とされた事実を無視することになります。神は誰を引き寄せるか、などとお選びにはなりません。神は神を求める人々の前に現れるのです。これは神がお定めになった霊的な律法です。この点について次の章で深く考察してみましょう。

救い:神の責任とわたしたちの責任

救いにおいて、神は確かにある役割をお持ちです。とても重要な役割です。そして、わたしたちにも責任があり、神からの役割が与えられています。コリントの信徒への手紙二第5章18節から21節に、和解におけるわたしたちの役割が明確に記されています。読んでみましょう。

コリントの信徒への手紙二第5章18節から21節
「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」

御子をお与えになることで、神は世界とご自身を和解させました。つまり、神への扉は今、開かれているのです。囚人の例を使ってご説明しますと、監獄のドアがすべて開いている状態なのです!ですが囚人は盲目です。何も見ることができません。救いがそこにあるのに、この世の神である悪魔が見えないよう、神を信じようとはしない人々の心の目をくらましました(コリントの信徒への手紙二第4章4節)。ですから、誰かが人々に向かって「扉が今、開いていますよ!どうぞ神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです!」と伝えなければなりません。人に伝え、主へと導き、和解のために奉仕する任務、これは誰が担うのでしょうか?答えはとても簡単です。わたしたちです。これは、わたしたちの責任、わたしたちはキリストによって任命された大使なのです。もし他国から何かが必要な場合は、その国の代表、「大使」である大使館に連絡しなければなりません。同様に、神における大使はわたしたちです。神は監獄のドアを開けられました。神への扉は開かれたのです。御子をお与えになり、世界と和解されたのです。今、わたしたちは、かつての囚人、盲人として、まだ囚人であり盲人である人々に向かって「神の元へおいでなさい、扉は開いていますよ!」と伝えなければらないのです。

この任務について、より詳しくコリントの信徒への手紙一第3章5節から6節に記されています。

「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった、分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」

ご覧ください。神は自らの役割をお持ちです、最も重要な役割を担っておられます。成長させてくださったのは神なのです。しかし、誰かが種をまき、水を注がなければなりません。神ではない誰かです。そう、わたしたちです!奉仕する任務を担うのは聖職者ではありません。わたしたちです。わたしたちに、和解への任務があるのです。この聖句は「神が植え、神が水を注ぎ、成長させてくださった」とは書かれていません。神から与えられた任務を果たした人々がいました。神へのアプローチとして「神がここにおられます、和解させていただきなさい」と人が伝え、神がその人とお会いになり、そしてご自身へと引き寄せられたのです。またアポロのように人々の心にまかれた種に水を注ぎ、御言葉を広げ、その真実を分かち合った人がいました。この「導くために」を太字で示しました(「信仰に導くために」)。人々を信仰に導く仲立ちが、パウロやアポロでした。二人は、仲介者、和解のために奉仕する任務、キリストによって任命された大使、植えて水を注ぐといった神から与えられた役割を担ったのです。ではわたしたちが「神はここにおられます」と言い、神が現れなかった場合を想像してみましょう。その人は神に出会うでしょうか?どれだけ願っても、出会うことはないでしょう。しかし神は引き寄せられます。そして神の役割を果たされるのです。ヨハネが、神がお引き寄せにならなければ神に出会うことはない、と言っていることは揺るぎない真実です。つまり、もし神が現れず何も成長させられなかったならば、どのように種を撒き水を注いでも、何も起りません。ですが神は現れます。そしてお引き寄せになり、成長をお助けになります。問題は、わたしたちが自分の任務、わたしたちに課せられた和解のために奉仕する任務、植え、水を注ぐ役割、そして、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコによる福音書第16章15節)を自ら実践するかどうかなのです。これは神がなされることではなく、わたしたちに課せられた任務なのです。

 結論

親愛なる兄弟の皆さま、神の選民があって、それは選民になれなかった人々の上位にある、という教義はとても便利ではありますが、非常に誤った教義です。神の選択、御心は全人類の救いと真実への知識への導きです。もしこれが神の選択であるとすれば、すべての人々とは誰なのでしょうか?選ばれた人々です!今、救われるか否かは、その人の信仰によることとなります。もし信じれば救われます。しかし、もし信じなければ救われません。神はこの救いの中で、どのような役割をお持ちでしょうか?一番大切な役割、人が心に神を招きいれた後に、ご自身を現され、お引き寄せになるという役割を果たされます。これはイエスの父が語るところの引き寄せです。神からの啓示を受けた方なら、わたしの申し上げていることがお分かりでしょう。神の啓示とは、神がその日の気分で決められることでなく、神ご自身の義務として、また御言葉によってなさいます。心から神を求める人は、神と出会うと御言葉にあります。神は、神を本当に求める人の前に、常に現れるのです。

さて、ではわたしたちはどうでしょう。神はわたしたちに、和解のために奉仕する任務、御言葉の種を撒き、水を注ぐという役割をお与えになっています。成長させられるのは神ですが(ご自身に引き寄せられる)、種を撒き、水を注ぎ、人々に主を導き、和解のために奉仕するという役割はわたちたちのものとお定めになりました。神が特定の人類を救い、他の人類は地獄へ送るというような教義は、まさに間違いです。そのような教義は、神は御心のままに救いたい人を救うと信じさせ、人々の心を眠りにつかせるものであり、真実ではありません。兄弟、姉妹の皆さん、わたしたちには御言葉を語り、福音を広げる機会を伺うという義務があります。これがわたしたちに課せられた義務です。御言葉を語るとは、囚人に「監獄からでましょう」と伝えることです。出るか出ないかは、その囚人の責任です。ですが、わたしたちには「でましょう」と伝え、父の存在を示すという義務があるのです。父が思いのすべてを尽くし、人々を心から待ち望んでおられます!まだ父の存在を知らない方々の代償も、同じように支払ってくださっています。そしてわたしたちをお待ちになった時と同じように、腕を広げ、人々がその御前に来るのを待っておられるのです。

タソス・キオラチョグロ(Tassos Kioulachoglou)

日本語: Tsukasa Ugaeri

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