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実り: クリスチャンの生き方とは (PDF) PDF版

実り: クリスチャンの生き方とは

クリスチャンの生き方とはそもそもどういうものなのでしょうか?それは神を、そしてその御子であるイエスキリストについて知ることであり、そして実りを実現することです。ヨハネの福音の中でイエスはつぎのように言われました。

ヨハネによる福音書第15章16節
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。」

またパウロはローマ人への手紙第7章4節でつぎのように言っています。
「わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである。」

種まき人のたとえ話のなかで、イエスは神の言葉を聞くひとびとにはつぎのように4つのカテゴリがあることを教えておられます。第二と第三のカテゴリは実りのないものとなるひとびとで、最後のひとびとは13:23また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」(マタイによる福音書第13章23節)。

したがって神がクリスチャンに意図されているものは、ただ信ずるだけではなく、終始一貫して変わらないことででもあります。単に同じ木である、または以前と同じ実を結べばよいのではありません。私たちの実りのほどは、神にとって問題であるわけではありません。この点をさらに繰り返します。あなたが単に、人生の波に沿って生きてゆくことが神の意図されるところかというと、そうではないのです。神はあなたを独自の生き物として創造なさいました。神はあなたに才能をお与えになりました。そうです、あなたに独自に、あるひとつのことがらをなしとげるよう任命なさったのです。それは、行って実りを結ぶことです。私たちはすぐに、それはどのようになされるのか見ますが、いまはまずこれを念頭においてください。神はもっとも若いものからもっとも年老いたもの、最貧のものからもっとも富裕なもの、無学なものからもっとも教育のあるものまで、ご自分の子供たちすべてに独自の才能をお与えになり、多くの実を結ぶよう望まれました。主がこれについておっしゃったことが、ヨハネによって記されています。

ヨハネによる福音書第15章8節
「あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。」

ヨハネによる福音書第15章1-2節
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。

父はその子供たちが実を結ぶと喜びます。父が刈り取り、きれいにして実を結ぶものがさらに結ぶよう、特別の手入れをする様子を見てください。父は単にぶどうの木の枝があればよいとお思いなわけではありません…豊かな実りのある枝、そのポテンシャルをすべて満たすような枝をお望みなのです。こんにち多くのクリスチャンは第三者の立場に立ってなすこともなく、誰かが自分たちのためにものごとを取り仕切ってくれるのを待っています。プロでないプロたち…ですがペトロその他はほとんどが第一世紀の漁師で、その意味ではプロとはいえないひとびとでした。彼らは新学校の卒業生でもなかったし、その必要もありませんでした!持っている学位と言えば、魚を捕る知識だけでした。彼らは信心あるものたちでしたが、その生活には目に見える変化はなにもありませんでした。ですが変化のないクリスチャン生活、実りのないクリスチャン生活など、まったく矛盾したことがらです。ですが私はここで神への熱意に富んだ熱心なクリスチャンと、神の御言葉には間違いはないといっているのではありません。間違いはあるのです!ですが熱心なクリスチャンは「流れに沿いなさい…日曜に教会の建物のなかに入り、椅子に座り、賛美歌を歌い、説教を聴き、そして家に帰って、次の日曜日が来るまではみんな忘れなさい」というようなミサは否定するでしょう。熱心なクリスチャンは妥協はしません。このひとびとは、不満を持ちながら受け入れるようなことはしません。彼らは神を求め、神のなかに成長を求めようとします。彼らは神とその御子に限りなく近づこうと願っています。彼らは自分の生活の中に、キリストを明らかにしようと願っているのです。熱心なクリスチャンは、キリストに、そして実を結ぶことに情熱を燃やしています。そして神はあなたに、そういう人間のひとりになってほしいとお望みなのです。神はあなたが熱心なクリスチャン、あるいは別の言い方をしますと、神への情熱を持ったクリスチャンであって欲しい、暖かい、なまぬるくないクリスチャン(黙示録第3章15節)であって欲しいとお望みなのです。実り豊かな枝、枝もたわわなよい実のなる、その最大の可能性をもった果実にです。 これがそもそもクリスチャンの生活なのです。

実り: それはなんなのでしょうか?

これを簡単に言いますと、それは変化した生活、キリストを中心とした生活、自分を殺し、キリストが自分を通して生きられるようにした生活(ガラテヤ人への手紙第2章19-20節)、自分あるいは他の人々をでなく、神にご満足頂ける道を求める生活のことです。その中心のテーマ、焦点、そして優先事項は神であるような生活なのです。聖書がこれについてどういっているかを見てみましょう。

ガラテヤ人への手紙第5章22-25節
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、5:23柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。5:24キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。5:25もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。」

御霊とは新しい人間、キリストとともにいる人間のことです。この新しい人間として生きるということは、私たちがすでに述べたように実を結び、キリストの持つ新しい性格を持ったことをいいます。エペソ人への手紙にはこうあります。

エペソ人への手紙第5章20節
「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」

神はすでに私たちが歩くべき神の道を備えてくださいました。つまり私たちそれぞれには、実をつけるように運命付けて植えられた木のように、独自の才能をくださっているのです。私たちはただ、神がすでに備えてくださった道を歩めばよいのです。こうすることが神に喜んでいただけることがらであり、実を結ぶ結果になるのです。ペテロの第一の手紙にはつぎの文節があります。

ペテロの第一の手紙第4章 7-11 節
「万物の終りが近づいている。だから、心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい。何よりもまず、互の愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである。不平を言わずに、互にもてなし合いなさい。あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互のために役立てるべきである。語る者は、神の御言を語る者にふさわしく語り、 奉仕する者は、神から賜わる力による者にふさわしく奉仕すべきである。それは、すべてのことにおいてイエス・キリストによって、神があがめられるためである。栄光と力とが世々限りなく、彼にあるように、アーメン。」

この文節にはいくつかの「あるべき」ことがらが述べられています。身を謹んで祈りなさい。互いの愛を熱く持ちなさい。不平を言わずに、互にもてなし合いなさい。またそこでは、神からの贈り物を私たちすべてはいただいているのだとも言っています。神はその子供たちそれぞれに、才能をお与えくださいました。私たちの体のには、それぞれの機能を果たす部分が備え付けられているように、私たちそれぞれもまた、同様なのです。私たちはキリストの組織体である教会に置かれ、そこでめいめいが独自の機能を果たすようにされているのです(コリント人への第一の手紙第12章12-27節)。そこで使徒ペトロがお話しになっているのは、ほかならぬつぎの一語に過ぎません。機能!神は特定の個人にだけ才能をお与えになっているのではありません。つまり牧師や司祭にのみそれを与えられたのではないのです。この文節は、クリスチャンという母体の中のひとつのグループのことだけを言っているわけではありません。そうではなく、あなたを含めたすべてのクリスチャンのことを言っているのです!そこではまた「お互いに奉仕しなさい」といっています。この才能は、無用に眠っているために与えられたのではないのです!それはお互いに奉仕するために与えられたのです。私はあなたに奉仕し、あなたは私に奉仕するのです。こんにち私たちは「聖職者」という言葉を、誰か宗教的な役割を果たす人のために使っています。個々の信者の集まりのなかでは、牧師や司祭は「聖職者」と呼ばれています。そこで、他の牧師でも司祭でもない、あるいはそのような地位にない人はすべて奉仕されるだけで、そのようなひとだけが奉仕するものであり、したがってあなたは奉仕することはないというのでしょうか?たとえそれとない形であっても、またはあからさまなものであっても、これが多くの人々の心に横たわる考えなのです。ですがこれは神から来たものでも、聖書が支持するアイデアでもありません。聖書がひろめているアイデアはつぎのようなものだからです。私たちは神からいただいた独自の才能を持ち、それはキリストのなかの母体として、神によっておかれています。聖書の中には聖職者だ、平信徒だなどという区別はありません。聖書が私たちに語るように、私たちすべては神への司祭なのです。このことをペトロは、つぎのような素晴らしい言葉で述べています。

ペテロの第一の手紙第2章9節
「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。」

そして、ペテロの第一の手紙第2章5節には
「この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。」

私たちそれぞれはその機能に沿って、お互いに奉仕するよう期待されています。ペトロの第一の手紙第4章7-11節には、神が与えてくださったものを忙しく活用するようにとあります。自分の才能に注力し、それを活用しなさい。あなたはすでにそれを持っているのですから、果たして自分が「聖職」を持っているかどうか、それが問題なのではないのです。それは事実なのです。ペトロが言っているのは、それを多忙に活用し、自分の才能に応じた奉仕をするということなのです。

ですが誤解は避けてください。自分の才能の活用に忙しくするということの意味は、主イエスキリストとの関係に生きるということです。ピリピ人への手紙にはつぎのようにあります。

ピリピ人への手紙第1章9-11節
「わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。” 」

義の実はキリストによるもの、私たちの力によるものではありません。さらには、その結果は神の栄光とほまれなのです。ヨハネによる福音書で、主イエスはぶどうの木、私たちはその枝であると教えておられます。

ヨハネによる福音書第15章4-5節、8節
「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。」

実を結ぶことは、私たちはぶどうの木につながっていることを前提とします。そして私たちはぶどうの木そのものではないのです。キリストこそがその木なのです!私たちは枝なのです。枝はぶどうの木につながっていなければ、果実を結ぶことなど不可能です。同じことが私たちについて言えます。キリストと一体になってはじめて、枝、つまり私たちは実を結ぶことが出来るのです。この場合、ぶどうの木にとっては枝だけが実を結ぶ唯一の道なのです。私たちはキリストにつながっていますので、そのご意志は私たちを通して現れます。ぶどうの木は私たちを通して生き、実を結ぶのです。神が私たちのために用意した良い仕事に奉仕し、それを追及することは、私たちが神との熱意に富んだ関係を持つことを前提とします。ここで注目すべきことがらは、その仕事自体ではなくキリストだということです。そして私たちがキリストと一体になることにより、つまりピリピが言ったように「イエスキリストにより」、実が結ぶのです。

この点をさらに先に見て行きますと、キリストは偽の預言者を見分けるためには、それが結ぶ実でわかると教えておられます。

マタイによる福音書第7章15-20節
「にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。」

御言葉は偽の預言者(マタイによる福音書第7章15節)、偽のキリスト(マタイによる福音書第24章24節)、偽の使徒(コリント人への第二の手紙第11章13節)、偽の兄弟(ガラテヤ人への手紙第2章4節、コリント人への第二の手紙第11章20節)、偽の教師(ペトロの第二の手紙第2章1節)、人をだます働き人(コリント人への第二の手紙第11章13節)について語っています。 このようなひとびとについてはなにかを知るべきであり、これは実なのです。そしてよい実は「キリストによって」のみ来ます。その他の木がたとえ神やキリストについて語ったとしても、それは偽の実しか結ぶことはありません。

ですから私は、あなたがた兄弟姉妹はその全身全霊を尽くして神を求め、生きた主との関係を熱意を持って深め、神があなたに授けてくださった才能を忙しく活用するよう、励ましたいと思います。霊の果実は、その木は霊であり、新しい性格であり、私たちのなかのキリストであるためにこのように呼ばれます。キリストについてください。というのはキリストのなかにつき、キリストにつくひとに生まれるものはたったひとつしかないからです。 それは、より多くの実です!

実り: 剪定

私は庭造りについては多くは知りませんが、次のことだけは学校で学びました。植物がよい実を結ぶためには、時に応じて剪定が必要です。ですがこれだけでは説明は十分ではありません。そこで私はインターネットのウィキペディアを見たら、こうありました。 (http://en.wikipedia.org/wiki/Pruning):

「庭造りでは剪定とは病気になった、実を結ばない、あるいは望まれない部分を植物から取り除くことをいう。剪定の目的は植物の成長を管理、あるいは一定方向に仕向けることによってその健康を維持し、あるいは果実や花の質を向上させることにある。適切な剪定は、それがよく行われなかった植物は病気になり、あるいは望ましくない成長をすることがあるため、スキルであるとともに芸術的なわざである。」

どんな植物にも剪定は必要です。どの植物も剪定をし、それが望ましく成長するよう助ける農夫が必要です。つまり病気の部分を除き、きれいにして、より多くの果実を結ぶようにしてくれる農夫です。おなじことが、主イエスキリストであるぶどうの木の枝である私たちにもいえます。私たちにもまた剪定が必要です。そしてその世話をする農夫がついていなければなりません。ヨハネの福音書にはこうあります。

ヨハネによる福音書第15章1-2節
わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。」

天なる父が剪定の世話をしてくださいます。剪定は必要事、必須のことがらです!それがなければ、私たちは成長できません!そしてさいわいにも、私たちには世話をしてくださる方がいます。それは天なる父です。父はよい、そして注意深い農夫のように見守り、私たちの成長を監督し、障害を除き、きれいにして、私たちがより多くの実を結ぶようにしてくださるのです。なんとすばらしいことでしょうか!実を結ぶことはキリストにつくことであり、さらにより多くの実を最大限に結ぶようにすることは、私たちを剪定して、世話してくださる天なる父のお仕事です。それはぶどうの木につくという私たちの仕事であり、私たちの生産性を増すために必要な剪定をすることは天の父のお仕事です。

ヘブル人への手紙は、この同じことがらを別の言葉で語ってくれます。そこにはこうあります。

ヘブル人への手紙第12章11節
「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」

ここでこの書の著者は訓練について語っており、訓練は当初は喜ばしいものとは思われないといっています。それどころか、辛いものなのです。剪定にも同じことが言えます。その植物から剪定するとき、農夫は小さく切り刻みます。死んだ部分を除きますが、それは無用だからです。剪定とはなにかを切り取ることです。以前はふつうだったが、いまではもはやふつうではなくなったもののことです。農夫は介入し、切り落としたのです。訓練も同じようなものだと言えますね?私たちは子供たちを訓練し、植物を剪定します。どちらも目的は同じです。子供たちを良くし、植物はより実りあるものにするのです。神がその子供たちをこのような形で懲らしめて訓練なさると、当座は辛いことには違いありませんが、その教えにしたがうものにとってはその結果としてただひとつのことがら、つまり実りが生まれます。それはヘブルの教えのとおり、平和な義の果実です。神がこれをなさるのは、結局はそれが父として、愛する子供たちにほどこすことがらだからです。したがってその訓練は、植物に農夫が剪定をほどこしてより多くの果実が生まれるようにするのと同様、愛に満ちた天の父が剪定の仕事をし、キリストについているものとしての私たちがより多くの実を結べるようにするためなのです。

実り: 優先事項と不結果性

私たちが見たように、多くの実を結ぶことは、神の栄光をもたらします。私たちが必要なことをするためには、すでに聖書の文節に見たようにぶどうの木につくこと、つまりイエスキリストにつくことです。天の父に喜んでいただくことを熱意を持って望むとき、私たちは父がお喜びになることをします。これが目的であるならば、人生に私たちがすることは、多くの実を結ぶことでしょう。ですがすでに明らかなように、神と神がお持ちの議題こそ、私たちの人生の最優先事項でなくてはなりません。これを別の言葉で言いますと、つぎのようになります。私たちが実を結ぶ邪魔をするものがあるとすれば、それはぶどうの木、つまりキリストでなく、他のものに気を取られることです。イエスのつぎの御言葉がマタイ福音書にあります。

マタイによる福音書第6章24-34節
「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに仕えることは出来ない。それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、、からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。6:32これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じであるまず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」

なにを食べようか、なにを飲もうか、どんな服を着ようかなどと思いわずらうのは異邦人、不信心者のすることです。このようなことがらは、私たちに起きてはなりません。私たちにとっての一番のことがら、最優先事項は神の王国とそのためにする義なのです。

こんにちはいままでにないほど多くのことがらが、私たちの注意を呼んでいます。そしていままでにないほど多くの選択が私たちの前にあります。個人としての私たちが、これほど多くの選択に直面した時代はかつてありませんでした。テレビのすいっちをひねれば、何百と言うチャンネルがあります。DVDの店に行けば何百と言う映画が選べます。インターネットに行けば、何千と言うウエブサイトがあります。個人がこのように自由な選択が出来る時代は、かつて存在しませんでした。ですがこのように一見よいことがらも、私たちがそれに割く時間をめぐって互いに争っています。それらは私たちの優先順位をめぐって争い、また私たちのなかのどの位置を占めようかと争っています。私は映画を見るのは好きですが、あまりにも多くの映画を見ますと、時間、特に神と過ごすための十分な時間がなくなり、また神が私に与えられた仕事をする時間もなくなってしまいますから、後悔します。私はインターネットで自分の好きないろいろなサイトを調べるのが好きです。ですがもし私がそれに時間を取りすぎますと、神と過ごす時間はまったくといっていいほどなくなってしまいます。私が努力すべき、ほんとうに価値あるゆいつのことがらは、神に仕える、神にのみ仕えることですから、こういったことがらには十分気をつけねばなりません。このように無数の選択にさらされている現在こそ、いままでのどの時代にも増して、私たちはなにが自分たちの最優先事項なのか、人生の目的なのかをつねに心にとどめておく必要があります。そして、それは神の栄光に向かって、より多くの実を結ぶこと以外にはありません。それは神を知り、ぶどうの木、つまりキリストとの親和関係を築いて、キリストによって天の父に栄光の果実を運ぶことにほかならないのです。この事実にはなんの変わりもありません。それは2000年前とまったく同じなのです。

これについて本稿を閉じる前に、もうひとつのことがらを加えたいと思います。イエスは種まきびとのたとえのなかで、御言葉を聞いた者たちの第3のカテゴリについてつぎのようにおっしゃいました。

マルコによる福音書第4章3-4節、7節
「聞きなさい! 種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、… ほかの種はいばらの中に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、実を結ばなかった。」

その理由はつぎのとおりです。

マルコによる福音書第4章 14節、18-19節
「種まきは御言をまくのである… また、いばらの中にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くが、世の心づかいと、富の惑わしと、その他いろいろな欲とがはいってきて、御言をふさぐので、実を結ばなくなる。

御言葉は蒔かれたが、それらはみな実のない植物、実を結ばないものになったのです。なぜでしょうか?それは他のことがらが邪魔に入り、それらが優先されたからです。ではその、他のことがらとはなんでしょうか?それはこの世のわざ、富のもつ欺瞞性、そして他の多くの欲望です。これらは私たちから実を盗むもの、雑念を生み、私たちから真の実を完全なまでに盗むものです。私たちは自分の人生のなかで、誰に奉仕すべきかを決めねばなりません。あなたは自分の人生のなかで、なにをしたいですか?私たちは実を結ばない雑念、この世が求めるものに人生を過ごしたいですか、それとも実を、多くの実を神の栄光のために結びたいですか?あなたは選択はなんでしょうか?私は第二の道を選びました。

タソス・キオラチョグロ(Tassos Kioulachoglou)

日本語: Tsukasa Ugaeri

Bible Copyright: ©共同訳聖書実行委員会Executive Committee of The Common Bible Translation

 

付録

聖書から、実についてのさらに多くの文節: すでに紹介したもののほかに、この課題についてはつぎのような文節があります。

コロサイ人への手紙第1章1-10節
「神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロと兄弟テモテから、コロサイにいる、キリストにある聖徒たち、忠実な兄弟たちへ。わたしたちの父なる神から、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神に感謝している。これは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対していだいているあなたがたの愛とを、耳にしたからである。この愛は、あなたがたのために天にたくわえられている望みに基くものであり、その望みについては、あなたがたはすでに、あなたがたのところまで伝えられた福音の真理の言葉によって聞いている。そして、この福音は、世界中いたる所でそうであるように、あなたがたのところでも、これを聞いて神の恵みを知ったとき以来、実を結んで成長しているのである。あなたがたはこの福音を、わたしたちと同じ僕である、愛するエペフラスから学んだのであった。彼はあなたがたのためのキリストの忠実な奉仕者であって、あなたがたが御霊によっていだいている愛を、わたしたちに知らせてくれたのである。そういうわけで、これらの事を耳にして以来、わたしたちも絶えずあなたがたのために祈り求めているのは、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力とをもって、神の御旨を深く知り、主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ、あらゆる良いわざを行って実を結び、神を知る知識をいよいよ増し加えるに至ることである。」

ユダの手紙第1章11-12節
「彼らはわざわいである。彼らはカインの道を行き、利のためにバラムの惑わしに迷い入り、コラのような反逆をして滅んでしまうのである。彼らは、あなたがたの愛餐に加わるが、それを汚し、無遠慮に宴会に同席して、自分の腹を肥やしている。彼らは、いわば、風に吹きまわされる水なき雲、実らない枯れ果てて、抜き捨てられた秋の木。

ペトロの第二の手紙第1章5-8節
「それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。これらのものがあなたがたに備わって、いよいよ豊かになるならば、わたしたちの主イエス・キリストを知る知識について、あなたがたは、怠る者、実を結ばない者となることはないであろう。

ヤコブの手紙第3章17-18節
「しかし上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。義の実は、平和を造り出す人たちによって、平和のうちにまかれるものである。」

テトスへの手紙第3章13-14節
「法学者ゼナスと、アポロとを、急いで旅につかせ、不自由のないようにしてあげなさい。わたしたちの仲間も、さし迫った必要に備えて、努めて良いわざを励み、実を結ばぬ者とならないように、心がけるべきである。」

エペソ人への手紙第5章第8-11節
「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい――光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである――主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。」

ローマ人への手紙第7章4-5節
「わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである。というのは、わたしたちが肉にあった時には、律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていた。」

ローマ人への手紙第6章20-22節
「あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。」