聖書の事実

主に委ねよ (PDF) PDF版

主に委ねよ

 時に私たちは、心に重荷を感じることがあります。夢破れた時、外部からのプレッシャー、脅威に似たような状況もありますが、もし私たちがそれらに対して適切に対応しなければ、人生においてマイナスの影響をもたらします。重荷やプレッシャーはクリスチャンライフにおいて現実的なものであり、御言葉を通して神がそれらに対してどのように対応すべきなのか教えていることからも、現実的であることが分かります。今日はこの事について着目していきたいと思います。

1. 神: 支えるお方である

 まず始めに、詩篇第55篇22節を読みましょう。

詩篇第55篇23節
あなたの重荷を主にゆだねよ主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支えとこしえに動揺しないように計らってくださる」

 御言葉は私たちに、重荷を主に委ねるように教えています。この事は瞬間的に2つのことを意味します。まず一つ目は、例えクリスチャンであっても重荷のない人生はないということ。そして二つ目は、私たちはその重荷の大きさを問わず主に委ねるべきであるということ。この事はペトロの手紙一第5章7節を通しても分かります。

ペトロの手紙一第5章6節から7節
「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」

 神は私たちに全ての思い煩いを任せるように語っておられます。なぜなら、神が私たちのことを心にかけていてくださるからです。この前の部分にへりくだりについて書かれてあるのはおそらく偶然ではないでしょう。というのは、重荷を目の前にして自分に出来ることは何もないと認め、神に委ねるためには、へりくだることが必要だからです。ローマの信徒への手紙第8章32節に神ご自身がどういうお方なのか書かれています。

ローマの信徒への手紙第8章32節
「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか

詩篇第37篇3節から5節でもこのように書かれています。

「主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。主に自らをゆだねよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ

そして箴言第3章5節から6節にはこう書かれています。

「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」

 これらの聖句は何度も読んでいると思いますが、ただの言葉ではありません。これらは神の言葉であり、私たちが注目し信じることを要する約束なのです。私たちにどれだけ知恵があってどれだけの重荷を抱えることができるかということではありません。これは、本当の知恵を持ち能力を持っておられる万能の神が私たちの重荷を抱えてくださるということを、私たちが信じるか否かという問題です。

2. マタイによる福音書第6章

 重荷や心配事の取り扱い方について、別の箇所でも御言葉が語っています。マタイによる福音書第6章です。25節から読みましょう。

マタイによる福音書第6章25節から32節
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は 衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥より も価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信 仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」

 ここでは、私たちの必要について神に聞くべきではないとは書かれていません。実際に、主が弟子たちに教えた祈りでは(「主の祈り」として知られている)身体的必要について語られています。(「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」マタイによる福音書第6章11節)ですから、ここでイエス様が私たちに伝えていることは、自分たちの必要について神に聞くことをやめることではなく、それらについて心配することをやめることなのです。イエス様は続けて、私たちが何を求めるべきなのか教えています。

マタイによる福音書第6章33節から34節
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

 英語訳では上記の聖句の冒頭に「そうではなく」という言葉がありますので、この聖句が前の聖句につながる内容であることが分かります。したがって、私たちは心配事に目を向けるのではなく、神の国と神の義にそれらを委ねるべきであるということです。その結果、私たちのほかの必要も加えて与えられるからです。キリストが悪魔から誘惑された際に応答したようにです。

マタイによる福音書第4章4節
「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』」

 人生の全てを手に入れても、御言葉が心になければ、私たちはいのちを持つことはありません。私たちに日常の糧や他のものの必要がないというわけではありません。ただ、神はそれらの必要をご存知であることを知ることが出来ます。しかし、私たちが本当に必要としているものは一つだけであって、それは神の言葉を心に持つことです。(ルカによる福音書第10章38節から41節を参照)神の言葉が私たちの心の中にあふれることです。私たちはまずそれを第一に求め、そうすれば、そのほかの全ての必要が加えて与えられるのです。これは約束です!

 

上記についてより実際的に理解するために、聖書の中で示されている例を見ていきましょう(例は複数あります)。

3. 獅子の洞窟のダニエル

 まず最初はダニエルの例です。ダニエルはバビロンに捕囚されたユダヤ人の一人で、王国の階層においてトップの座についた人です。実際にダニエル書第6章3節に書かれていますが、メディア人ダレイオスの時代にダニエルは優秀な大臣として認められていました。この事で他の同僚たちがダニエルを妬むようになり、ダニエルを陥れようとします。30日間、王以外の人間や神に対して祈ることを禁ずる命令を王が出すように仕掛けました。(ダニエル書第6章4節から8節)この命令に背く者は誰でも獅子の洞窟に入れられるとされました。このような陰謀は偶然ではありませんでした。6節で語られている通り同僚たちは、ダニエルを陥れるには、「神の法」に言いがかりをつけるしかないと知っていたのでした。ダニエルが神を愛していることを知っていて、ダニエルに迷いを与えたのです。命令通りに神に祈ることをやめるか、命令に背いて獅子の餌となるかのどちらかを選ばねばなりません。同僚たちはこの陰謀を用いて、神とダニエルとの関係を邪魔しようとしたのです。選択権はダニエルにありました。このプレッシャーや脅威に目を向けて、心を不安や恐れで満たすか、神に委ねて神との関係において神を信じるかのどちらかです。11節に、ダニエルの決断について書かれています。

ダニエル書第6章11節
ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。

 ダニエルは神に祈り続けただけでなく、いつものとおりに窓を全開にして祈りました!この脅威を無視したことは明らかであり、ダニエルは窓を閉めたり、見えないようにしたり、誰もいないところで内緒で祈ることなどもせず、自分の力で解決しようとしませんでした。逆に、これまでのように神との関係を築こうとしました。一方で、この事は敵である同僚が願っていた通りでした。ダニエルが神に祈ったり聞いたりすることをやめないという前提で、陰謀を計画していたからです。ダニエルが命令に背くように最初から計画していました。12節から17節に、同僚たちが何をしたのか書かれています。

ダニエル書第6章12節から17節
「役人たちはやって来て、ダニエルがその神に祈り求めているのを見届け、王の前に進み出、禁令を引き合いに出してこう言った。『王様、向こう三十日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者があれば、獅子の 洞窟に投げ込まれるという勅令に署名をなさったのではございませんか。』王は答えた。『そのとおりだ。メディアとペルシアの法律は廃棄されることはな い。』彼らは王に言った。『王様、ユダヤからの捕囚の一人ダニエルは、あなたさまをも、署名なさったその禁令をも無視して、日に三度祈りをささげてい ます。』王はこれを聞いてたいそう悩み、なんとかダニエルを助ける方法はないものかと心を砕き、救おうとして日の暮れるまで努力した。役人たちは王のもとに来て言った。『王様、ご存じのとおり、メディアとペルシアの法律によれば、王による勅令や禁令は一切変更してはならないこ とになっております。』それで王は命令を下し、ダニエルは獅子の洞窟に投げ込まれることになって引き出された。王は彼に言った。『お前がいつも拝んでいる神がお前を 救ってくださるように。』」

 同僚たちはダニエルを嫌っていたため、ダニエルを降格させるために王までもだましたのでした。王がようやく全てを理解した時には、どうすることも出来ず、悲しみました。命令を後から変えることが出来なかったからです。しかしながら王は、それよりも重要なことをしました。神を信頼したのです。18節から24節に結末が書かれています。

ダニエル書第6章18節から24節
「一つの石が洞窟の入り口に置かれ、王は自分の印と貴族たちの印で封をし、ダニエルに対する処置に変更がないようにした。王は宮殿に帰ったが、その夜は食を断ち、側女も近寄らせず、眠れずに過ごし、夜が明けるやいなや、急いで獅子の洞窟へ行った。洞窟に近づくと、王は不安に満ちた声をあげて、ダニエルに呼びかけた。『ダニエル、ダニエル、生ける神の僕よ、お前がいつも拝んでいる神は、獅 子からお前を救い出す力があったか。』ダニエルは王に答えた。『王様がとこしえまでも生き永らえられますように。神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしはなんの危害も受けませんでした。神様に対するわたしの無実が認められたので す。そして王様、あなたさまに対しても、背いたことはございません。』王はたいそう喜んで、ダニエルを洞窟から引き出すように命じた。ダニエルは引き出されたが、その身に何の害も受けていなかった。神を信頼してい たからである

 最後の聖句ではダニエルに何が起きたのか、その理由も書かれています。結果は「何の害も受けていなかった」、理由は「神を信頼していたから」です。

 上記の話を読んで素早く理解することは簡単なことです。しかしダニエルの身になって考えて見ましょう。ダニエルや聖書に出てくる他の人物はスーパーマンのようであったわけではありません。彼らは皆、私たちのような人間であり、ただ神を信じるか信じないかという選択肢をもっていたに過ぎません。私たちが今直面している問題はダニエルのこの出来事よりも大きな問題でしょうか?ダニエルはほんの数分で死に至っていたかもしれないのです。「普通に」考えると、獅子の洞窟に入れられた時点で死に至ります。しかしダニエルは、状況を「普通に」考えることはしませんでした。彼はそうはしませんでした。聖句が語っている通り、「神を信頼」したのでした。彼は神を信じました。他にもいろいろな事ができたはずです。同僚たちの罠から逃れるために、出来ることはたくさんありました。窓を閉めたり、妥協したり、王に懇願することも出来たでしょう。しかしそうではなく、ダニエルは神への信仰を選びました。洞窟に投げられた時、彼は「神を信頼して」いました。結果はどうなったでしょう?「その身に何の害も受けていなかった。神を信頼してい たからである」問題なのは、困難、重荷、心配事が私たちに乗りかかってくることではありません。なぜならこれらのものは必ず来るからです。その代わり、私たちはそれらに対してどのように直面していくかどうかを問うべきです。私たちはそれらを自分たちの肩に背負ったままでいるでしょうか?それとも全て神に委ねるでしょうか?神の能力と力を信じるでしょうか?自分の力を信じるでしょうか?普通に解決することを望むでしょうか?(「私は出来る」「私には知恵がある」)それともそうではない方法で解決するでしょうか?(「神は出来る」「神が私に知恵をくださる」)

4. エリヤの例

 重荷や心配事に直面して、神の御力で自分の必要を満たしてくださると信じた人について列王記上第17章にも書かれています。1節でエリヤはイスラエルの王であるアハブと話しています。

列王記上第17章1節
「ギレアドの住民である、ティシュベ人エリヤはアハブに言った。『わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。』」

 アハブの時代にイスラエルでは多くの悪が行われていたため、神は3年半の間雨を降らせないというものでした。もちろんこれは、エリヤの住んでいるイスラエルにとって飢餓が訪れることを意味するものでした。ですから、「普通に」考えたらもうすぐ手に入れることが難しくなる食糧や水を集める必要がありました。エリヤが食糧や水を必要としていることを神はご存知だったでしょうか?そして神はそのことに関してどうされたでしょうか?2節から6節に書かれています。

列王記上第17章2節から6節
「主の言葉がエリヤに臨んだ。『ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。』エリヤは主が言われたように直ちに行動し、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに行き、そこにとどまった。数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来た。水はその川から飲んだ」

 神は私たちの必要をご存知でおられ、それらが満たされることが一見不可能に見えたとしても、御力によって満たすことが出来るお方です。エリヤにとっての解決として鳥が食物を運んでくるとは誰が想像できたでしょうか?しかし今ここに実際書かれている通りなのです。私たちは必ずしも普通の解決を求めるのではなく、不可能を可能にされる神の御力による解決を求めます。解決策がありそうな時しか希望が持てないのではなく、解決策が全く見えない時でも希望を持つことができるのです。エリヤに対してそうであったように、神は私たちに対しても解決策を与え、普通を超える方法で祈りに答えられます。神は御力をお持ちです。続けましょう。

列王記上第17章7節から9節
「しばらくたって、その川も涸れてしまった。雨がこの地方に降らなかったからである。また主の言葉がエリヤに臨んだ。『立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。』」

 川が涸れてしまいました。水がなくなっていきました。渇きがエリヤを不安にさせます。彼はどうしたでしょうか?神が知恵を与え、解決策、御力による解決策を与えるまで、何もしませんでした。

列王記上第17章10節から16節
「彼は立ってサレプタに行った。町の入り口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた。エリヤはやもめに声をかけ、『器に少々水を持って来て、わたしに飲ま せてください』と言った。彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、『パンも一切れ、手に持って来てください』と言った。彼女は答えた。『あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油 があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待 つばかりです。』エリヤは言った。『恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで/壺の粉は尽きることなく/瓶の油はなくならない。』やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった」

 「普通に」考えて、上記のように想像できた人がいたでしょうか?誰もいません!これら全て不可能です。しかしそれは「普通に」考えるからです。御力によることとして考えないからです。主は「人間にはできないことも、神にはできる」(ルカによる福音書第18章27節)と言われました。全ては神によって可能なのです。最も素晴らしく、終わりがなく、全世界の力の源である神だからです。周りばかりを見て、普通の解決策だけを求めるのはやめましょう。私たちの周りで神が働かれる可能性を制限するようなことはやめましょう。なぜなら周りを見ても何も見えず、最悪な場合は獅子の洞窟や飢餓や渇きだけが見える場合もあるからです。そうではなく、例え解決策が見えない時でも神を見上げて、神の解決や導きを待ちましょう。私たちの歩みを主に委ね信頼しましょう。そうすれば、「主は計ら」(詩篇第37篇5節)ってくださいます。私たちはどのように主が計らってくださるのか分かりませんが、必ずそうしてくださることを知っています。私たちの周りがうまくいかなくても、この事が十分であり、神にあって平安を持つことが出来るのです。

タソス・キオラチョグロ(Tassos Kioulachoglou)

 

日本語: Kimiko Ikeda

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