聖書の事実

ヨセフ:忍耐の人 (PDF) PDF版

ヨセフ:忍耐の人

 ヤコブの手紙第5章10節から11節にこう書かれています。

ヤコブの手紙第5章10節から11節
「兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っていま す。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです」

 私たちには忍耐が必要です。特に困難を通る時にはなおさらです。御言葉は、「苦難を耐え忍び」(ローマの信徒への手紙第12章12節)と教えています。今日は忍耐について着目し、ヤコブの息子のヨセフの模範から学びます。

1. ヨセフ:カナンの地で

 創世記第37章3節から11節にこう書かれています。

創世記第37章3節から11節
「イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになった。ヨセフは言った。『聞いてください。わたしはこんな夢を見ました。畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来 て、わたしの束にひれ伏しました。』兄たちはヨセフに言った。『なに、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するというのか。』兄たちは夢とその言葉のために、ヨセフ をますます憎んだ。ヨセフはまた別の夢を見て、それを兄たちに話した。『わたしはまた夢を見ました。太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです。』今度は兄たちだけでなく、父にも話した。父はヨセフを叱って言った。『一体どういうことだ、お前が見たその夢は。わたしもお母さんも兄さんたち も、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか。』兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた」

 ヤコブは他の息子の誰よりもヨセフを愛しました。しかしこれが原因で兄弟からねたまれることになります。それだけでなく、ヨセフは2つの夢を通して、将来自分の家族を支配することが示されます。そのことが兄弟からのねたみを一層強いものとします。これから見ていきますが、このねたみが後に、ヨセフに大きな苦しみを与えることになります。

これも後に見ていきますが、これらの夢を創られた神ご自身が夢を現実のものとします。しかしそれは、もっと後のことです。(創世記第42章9節)夢では、神はまずヨセフに苦しみを与えるとも語っていました。苦しみについて知ったヨセフがまず挙げた質問とは、「なぜ?」でした。神はなぜヨセフに、何年も後に起こる事を前もって夢で伝えたのでしょうか?その事を通して兄弟からの憎しみが一層増して、ついにはヨセフがエジプトに奴隷として売られてしまうことを知らなかったのでしょうか?もちろん神はご存知でした。神に知られてないことは何一つありません。何一つ、誰一人として、神を驚かせることはできないのです。神は全てをご存知で、私たちが見ている今の事柄よりもはるかに遠くのことまでご存知です。その時は何も見ることが出来ないほど苦しくても、ヨセフが通ったそれらの苦しみには目的がありました。試練や苦しみを通ることは、神のみこころやご計画から外れることを意味するのではありません。ヨセフにも私たちにも言えることですが、苦しみには目的があり、神ご自身がその苦しみを与えるのです。御言葉は、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」(ローマの信徒への手紙第8章28節)と語っています。神を愛するなら、全ての全てが益となるのです。困難も苦しみも含みます。前進するために、いつも「なぜ?」を繰り返す必要はありません。これから見ていきますが、ヨセフの「なぜ?」が答えられるまでには何年もかかり、その道のりの途中には、さらに多くの疑問が出てきました。しかしながら、私たちがいつも必要なのは信仰です。起きている全ての全貌が見えなくても、神のご計画を信じることです。ペトロの手紙一第4章19節に「だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい」と書かれています。私たちの人生には、神の「御計画に従って」苦しむ時がやってきます。全ての創造者である神に魂をゆだね、信じようではありませんか。神はご自身のなさることを全てよくご存知です。

2.カナンからエジプトへ

 ヨセフの話に戻りますが、もし夢を見た時にヨセフが夢の理由について神に問わなかったとしても、次の出来事の後にはおそらくしたでしょう。ヨセフの父は、ヨセフの兄弟が群れに餌を与えている場所へ、兄弟を捜しに行くように命じました。しかし兄弟たちは・・・

創世記第37章18節から28節
「兄たちは、はるか遠くの方にヨセフの姿を認めると、まだ近づいて来ないうちに、ヨセフを殺してしまおうとたくらみ、相談した。『おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう。』ルベンはこれを聞いて、ヨセフを彼らの手から助け出そうとして、言った。『命まで取るのはよそう。』ルベンは続けて言った。『血を流してはならない。荒れ野のこの穴に投げ入れよう。手を下してはならない。』ルベンは、ヨセフを彼らの手から助け 出して、父のもとへ帰したかったのである。ヨセフがやって来ると、兄たちはヨセフが着ていた着物、裾の長い晴れ着をはぎ取り、彼を捕らえて、穴に投げ込んだ。その穴は空で水はなかった。彼らはそれから、腰を下ろして食事を始めたが、ふと目を上げると、イシュマエル人の隊商がギレアドの方からやって来るのが見えた。らくだに樹 脂、乳香、没薬を積んで、エジプトに下って行こうとしているところであった。ユダは兄弟たちに言った。『弟を殺して、その血を覆っても、何の得にもならない。それより、あのイシュマエル人に売ろうではないか。弟に手をかけるのはよそう。あれだって、肉親の弟だから。』兄弟たちは、これを聞き入れた。ところが、その間にミディアン人の商人たちが通りかかって、ヨセフを穴から引き上げ、銀二十枚でイシュマエル人に売ったので、彼らはヨセフをエ ジプトに連れて行ってしまった」

 ヨセフの兄弟のねたみは、ついにヨセフを奴隷としてエジプトに売るまでに膨らんでしまいました。ここで少し止まって、ヨセフの立場を考えてみましょう。ヨセフはどんな疑問を抱いていたでしょうか。一瞬で、彼の人生が劇的に変えられたのです。この出来事の数時間前まで、ヨセフは愛する父親と共に家にいました。しかし今、実の兄弟に奴隷として売られ、エジプトに向かっているのです!なぜこのような出来事が起きたのか、ヨセフが理解していたと思いますか?私はそうは思いません。

 この時のヨセフと同じように、私たちにも目の前で起きている出来事の理由が分からない時があります。混乱して悲しむかもしれません。しかし、再度この聖句を繰り返させてください。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」(ローマの信徒への手紙第8章28節)私たちの視野には限界があります。現在と過去しか見ることができません。しかし神は全ての全貌をご存知です。過去も現在も、そして未来もです。私たちの視野には限界があり、それは不完全なものです。神の視野には限界はなく、完全なものです。私たちの視野と神の完全な視野をつなげるものが信仰です。信仰によって、私たちの限られた視野を、神の完全な視野にゆだねます。そして私たちの限られた視野だけで判断するのをやめ、代わりに私たちの信じる神の視野を信じるのです。私たちの信仰が試されている時とは、信仰の対象が神ではなく自分達の感覚に移行している時です。私たちの目にしか映らない、答えられていない疑問に答えようとするのはやめましょう。私たちの結論は正しいものではありません。逆に、「真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい」(ペトロの手紙一第4章19節)私たちが全ての事に理解できなくても、神は常にご自身のなさることを全てご存知です。

3. ヨセフ:ポティファルの家から牢獄へ

 ヨセフの話に戻ります。第39章1節から6節に何が起きたのかが書かれています。

創世記第39章1節から6節
「ヨセフはエジプトに連れて来られた。ヨセフをエジプトへ連れて来たイシュマエル人の手から彼を買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト 人ポティファルであった。主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた。主人が家の管理やすべての財産をヨセフに任せてから、主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福された。主の祝福は、家の中にも農地にも、す べての財産に及んだ。主人は全財産をヨセフの手にゆだねてしまい、自分が食べるもの以外は全く気を遣わなかった」

 「主がヨセフと共におられた」主は、ヨセフの試練の間は離れていて、そしてまた戻ってきた、とは書かれていません。主はヨセフと共におり、始めからずっとそうでした。「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」とヘブライ人への手紙第13章5節に書かれている通りです。ヨセフも、私たちと同じように、現在と過去しか見ることができませんでした。彼自身の肉の目で状況を見たら、とても惨めな思いになっていたことでしょう。人生そのものをあきらめていたかもしれません。しかしヨセフは、自分の人生が期待していたものと大きく異なっていても、そうしませんでした。逆に、ヨセフはエジプト人のもとで働き、事実上この主人の全ての持ち物を管理することになりました。自分の持つ疑問がいまだ答えられない状況の中でも、ヨセフは、その答えを全てご存知であるお方にゆだねて、その人生を生きました。

 ポティファルの家でのヨセフの歩みを見ると、ようやくヨセフの人生に光が見えてきたとも思えます。そこでの仕事はとても充実したものでした。ファラオの宮廷の役人の全ての所有物を管理することになったのです。多くのエジプト人にとっても特権といえたであろう仕事が、ヨセフのようなよそ者に与えられました。しかし、状況は突然にして変わります。創世記第39章6節から20節に書かれています。

創世記第39章6節から15節、19節から20節
「ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた。これらのことの後で、主人の妻はヨセフに目を注ぎながら言った。『わたしの床に入りなさい。』しかし、ヨセフは拒んで、主人の妻に言った。『ご存じのように、御主人はわたしを側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産 もすべてわたしの手にゆだねてくださいました。この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻です から。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。』彼女は毎日ヨセフに言い寄ったが、ヨセフは耳を貸さず、彼女の傍らに寝ることも、共にいることもしなかった。こうして、ある日、ヨセフが仕事をしようと家に入ると、家の者が一人も家の中にいなかったので、彼女はヨセフの着物をつかんで言った。『わたしの床に入りなさい。』ヨセフは着物を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。着物を彼女の手に残したまま、ヨセフが外へ逃げたのを見ると、彼女は家の者たちを呼び寄せて言った。『見てごらん。ヘブライ人などをわたしたちの所に連れて来たから、わたしたちはいたずらをされる。彼がわたしの所に来て、わたしと寝ようとしたから、大声で叫びました。わたしが大声をあげて叫んだのを聞いて、わたしの傍らに着物を残したまま外へ逃げて行きました。』『あなたの奴隷がわたしにこんなことをしたのです』と訴える妻の言葉を聞いて、主人は怒り、ヨセフを捕らえて、王の囚人をつなぐ監獄に入れた。ヨセフはこうして、監獄にいた」

 ヨセフの仕事ぶりは優秀でしたが、今度はポティファルの妻からねらわれることになり、結果的にファラオの牢獄に入れられます。ヨセフは、神のみこころと知っていた道から1歩も退こうとしませんでした。彼はポティファルの妻に言います。「わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう」ヨセフが恐れていたのは人ではなく、神でした。結果的に牢獄に入ることになっても、主の臨在はヨセフの上にありました。20節から23節にこう書かれています。

創世記第39章20節から23節
「ヨセフはこうして、監獄にいた。しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたか らである」

しかし、主がヨセフと共におられ」と書かれている同じことが、私たちにも起こっています。私たちが困難の中にいても、主はそこにおられます。ヨセフのように、いまだに答えられていない疑問があるかもしれません。「この状況の中で神はどこにいるのだろう?」と問うかもしれません。しかし答えはとても単純です。短くて簡潔です。神はあなたと共におられます

 ヨセフの話に戻りますが、ポティファルの家の管理をしていたヨセフが、今度は牢獄の全てを管理することになります。しばらくして、ヨセフと出会う人たちがいました。二人ともファラオの役人で、給仕役の長と、料理役の長でした。創世記第40章5節から8節に書かれています。

創世記第40章5節から8節
「監獄につながれていたエジプト王の給仕役と料理役は、二人とも同じ夜にそれぞれ夢を見た。その夢には、それぞれ意味が隠されていた。朝になって、ヨセフが二人のところへ行ってみると、二人ともふさぎ込んでいた。ヨセフは主人の家の牢獄に自分と一緒に入れられているファラオの宮廷の役人に尋ねた。『今日は、どうしてそんなに憂うつな顔をしているのです か。』『我々は夢を見たのだが、それを解き明かしてくれる人がいない』と二人は答えた。ヨセフは、『解き明かしは神がなさることではありませんか。ど うかわたしに話してみてください』と言った」

 「解き明かしは神がなさることではありませんか」そうです。どんな解き明かしも説明も神がなさることです。この励ましの言葉のおかげて、役人はヨセフに夢について話し始めました。

創世記第40章9節から15節
「給仕役の長はヨセフに自分の見た夢を話した。『わたしが夢を見ていると、一本のぶどうの木が目の前に現れたのです。そのぶどうの木には三本のつるがありました。それがみるみるうちに芽を出したかと思うと、すぐに花が咲き、ふさふさとしたぶどうが熟しました。ファラオの杯を手にしていたわたしは、そのぶどうを取って、ファラオの杯に搾り、その杯をファラオにささげました。』ヨセフは言った。『その解き明かしはこうです。三本のつるは三日です。三日たてば、ファラオがあなたの頭を上げて、元の職務に復帰させてくださいます。あなたは以前、給仕役であったときのように、ファラオに杯をさ さげる役目をするようになります。ついては、あなたがそのように幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください。わたしのためにファラオにわたしの身の上を話 し、この家から出られるように取り計らってください。わたしはヘブライ人の国から無理やり連れて来られたのです。また、ここでも、牢屋に入れられるようなことは何もしていないのです。』」

 二人の役人(料理役の長の夢については本稿では書いていません)の夢は神からきたものでした。だからこそ神は、解き明かしも与えました。給仕役の長は元の職場に復帰することになります。ヨセフはそれを知りながら、この出来事をファラオに伝えるように給仕役の長にお願いします。そして20節から23節に続きます。

創世記第40章20節から23節
「三日目はファラオの誕生日であったので、ファラオは家来たちを皆、招いて、祝宴を催した。そして、家来たちの居並ぶところで例の給仕役の長の頭と料理役の 長の頭を上げて調べた。ファラオは給仕役の長を給仕の職に復帰させたので、彼はファラオに杯をささげる役目をするようになったが、料理役の長は、ヨセフが解き明かしたとおり木にかけられた。ところが、給仕役の長はヨセフのことを思い出さず、忘れてしまった」

神がヨセフを通して語った通りの出来事が起きました。その事実を目撃し、ヨセフが懇願したにも関わらず、この給仕役の長はヨセフの願いを忘れてしまいました。ヨセフはどんなことを考えていたでしょうか。きっと大きな期待をもってその三日間を過ごし、夢の解き明かしが現実になるのを待って、給仕役の長が自分のことを覚えていてくれることを願っていたでしょう。しかし彼は、ヨセフのことを忘れてしまいました。ある人はこの事を不注意と言いますが、一方で恩知らずと言う人もいます。しかし御言葉は、「誰が『あれ』といってあらしめえようか。主が命じられることではないか」(哀歌代3章37節)と語っています。神に従う者の人生には、偶然は存在しません。逆に、「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」のです。万事です。この場合の不注意でさえもでしょうか?そうです。ヨセフが牢獄に入ったこともでしょうか?神を愛するならば、そうです。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」のです。私たちの直面しているそれぞれの状況は決してこの「万事」に含まれない例外ということはないでしょう。

4. ヨセフ:ファラオの宮廷にて

 しばらく経って、今度はファラオが神からの夢を見ることになります。そして解き明かしを求めます。この時ようやく、給仕役の長は数年前に自分と料理役の長の夢を解き明かしたヘブライ人がいたことを思い出します。すぐにヨセフはファラオの元に呼ばれ、夢の解き明かしをします。エジプトは7年間繁栄して、その後7年間飢餓が訪れること。よってファラオは賢い決断をして、国が繁栄している間に次に訪れる飢餓の期間に十分な資源を確保することが求められることを伝えました。ファラオはヨセフに言いました。

創世記第41章37節から44節
「ファラオと家来たちは皆、ヨセフの言葉に感心した。ファラオは家来たちに、『このように神の霊が宿っている人はほかにあるだろうか』と言い、ヨセフの方を向いてファラオは言った。『神がそういうことをみな示されたからには、お前ほど聡明で知恵のある者は、ほかにはいないであろう。お前をわが宮廷の責任者とする。わが国民は皆、お前の命に従うであろう。ただ王位にあるということでだけ、わたしはお前の上に立つ。』ファラオはヨセフに向かって、『見よ、わたしは今、お前をエジプト全国の上に立てる』と言い、印章のついた指輪を自分の指からはずしてヨセフの指にはめ、亜麻布の衣服を着せ、金の首飾りをヨセフの首にかけた。ヨセフを王の第二の車に乗せると、人々はヨセフの前で、『アブレク(敬礼)』と叫んだ。ファラオはこうして、ヨセフをエジプト全国の上に立て、ヨセフに言った。『わたしはファラオである。お前の許しなしには、このエジプト全国で、だれも、手足を上げてはならない。』」

ヨセフは突然エジプトに連れられ、突然牢獄に入れられ、そして突然エジプトにおいて第二の地位が与えられました!自分の目上にいるのはファラオだけです。ヨセフのリーダーシップによって、エジプトは7年間の繁栄の間に、次に続く飢餓の7年間に必要な資源を確保することが出来ました。さらに、ヨセフの父であるヤコブがエジプトに食料があることを聞いて、食料を買いにヨセフの兄弟たちをエジプトに送ってきました。創世記第52章から56章には、神がこの家族の再会を美しく導いたことが書かれています。

5. ヨセフ:理由

 ヨセフが通った道のり、特に困難の時は2ヶ月や3ヶ月間という長さではありませんでした。実際に、ヨセフがエジプトに売られてからファラオの前に立つまで13年という月日が流れていました。(創世記第37章2節と創世記第41章46節を参照)詩篇第105篇17節から22節では、ヨセフに起こった全ての出来事のまとめとその意味が語られています。

詩篇第105篇17節から22節
あらかじめひとりの人を(イスラエルの民の前に)遣わしておかれた。奴隷として売られたヨセフ。主は、人々が彼を卑しめて足枷をはめ、首に鉄の枷をはめることを許された。主の仰せが彼を火で練り清め、御言葉が実現するときまで。王は人を遣わして彼を解き放った。諸国を支配する王が彼を自由の身にし、彼を王宮の頭に取り立て、財産をすべて管理させた。彼は大臣たちを思いのままに戒め、長老たちに知恵を授けた」

 ヨセフをエジプトに送ったのはでした。「ひとりの人を遣わしておかれた」ヨセフもまた、兄弟と再会した時に同じことを言っています。

創世記第45章7節から8節
神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるため です。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です

そして再び創世紀第50章19節から20節にこう書かれています。

「ヨセフは兄たちに言った。『恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです

 詩篇に戻りますが、神は「御言葉が実現するとき(ヨセフの人生において)」をあらかじめ定めておられました。それまでは「主の仰せが彼を火で練り清め」ていたのでした。ですからヨセフが通った数々の出来事は、ただの「悪運」や状況の悪さのせいで起きたことではなく、神がヨセフに対するご計画を実行する過程にすぎなかったのです。これら全ての試練は神がご計画したのであり、それはヨセフがそれぞれの試練を通じて必要なステップを踏むためでした。ローマの信徒への手紙第5章3節から5節は試練についてこう語っています。

ローマの信徒への手紙第5章3節から5節
「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

そしてヤコブの手紙第1章2節から4節にもこう書かれています。

「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」

ヘブライ人への手紙第10章36節にもこう書かれています。

「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです

 私たちが好もうと好まないに関わらず、みこころを実行するためには忍耐が必要です。そして忍耐は試練を通して練られます。近道はありません。ヨセフは第1ステップ(兄弟から嫌われてエジプトへ奴隷として売られ、後にポティファルの宮廷へ連れて行かれる)と第2ステップ(不当な容疑をかけられて牢獄に入れられる)なしには、第3ステップであるエジプト第2の権力を持つ存在、そしてイスラエルを救う存在になることはできませんでした。詩篇第105篇には「主は、人々が彼を卑しめて足枷をはめ、首に鉄の枷をはめることを許された。主の仰せが彼を火で練り清め、御言葉が実現するときまで」とあります。神様のヨセフに対する約束は始めから第3ステップまでずっとありました。しかし、第1ステップと第2ステップの試練なしには約束を成就させませんでした。私たちの多くは、第1ステップと第2ステップを通らないで第3ステップにたどり着きたいと考えます。十字架刑を経験することなしに、復活を求めるのです。弟子になりたいと言いながら、十字架をかつぐことはしたくないのです。しかしそれは単純に不可能なことです。神の御子である主イエス・キリストが「多くの苦しみによって従順を学ばれ」たとしたら、私たちには他の方法がありえるでしょうか。もしそうであれば、私たちは自分自身をあざむいていることになります。

試練には、私たちを高くするためのステップがあり、それらは神が私たちのために計画してくださいます。ヨセフがそうだったように私たちにとっても、試練は神様が私たちに進んで欲しい方向へ進むための道具となります。神様は私たちの人生においてご計画と目的を持っておられ、その目的を達成したいと願っておられます。あなたは神に従いますか?第1ステップと第2ステップを通らずに第3ステップに行ける人は誰もいません。苦しみなしに従順を学ぶ人は誰もいません。試練なしに忍耐を練られる人は誰もいません。神が私たちの人生において持っておられる目的を、試練の中で神を介入させることなしに達成できる人は誰もいません

6. まとめ

本稿を通じて、試練は必ずしも悪いものとして計画されるわけではないということが伝わることを願います。神を愛する者にとって、「万事が益となるように共に働く」のであって、万事は試練や苦しみも含みます。

ですからもし、疑問が多いにも関わらず答えられているものが少なくても、落ち込まないでください。主を信頼しましょう。主はすべてご存知であり、それは必ず益となり主の栄光へとつながっていきます。

タソス・キオラチョグロ(Tassos Kioulachoglou)

 

日本語: Kimiko Ikeda

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