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バラムが歩んだ道 (PDF) PDF版

バラムが歩んだ道

バラムについては、民数記第22章から24章に書き記されています。約束された土地へと向かう途中、イスラエル人は「エリコに近いヨルダン川の対岸にあるモアブの平野」に野営しました。(民数記第22章1節)モアブの王バラクはこれをとても恐れて、数百キロ離れたメソポタミアのペトルの町に、バラムを招くために使者を送りました。民数記第22章5節から6節にバラクがバラムに与えた指示が書かれています。

民数記第22章5節から6節
「彼は、ユーフラテス川流域にあるアマウ人の町ペトルに住むベオルの子バラムを招こうとして、使者を送り、こう伝えた。『今ここに、エジプトから上って来た一つの民がいる。今や彼らは、地の面を覆い、わたしの前に住んでいる。 この民はわたしよりも強大だ。今すぐに来て、わたしのためにこの民を呪ってもらいたい。そうすれば、わたしはこれを撃ち破って、この国から追い出すことができるだろう。あなたが祝福する者は祝福され、あなたが呪う者は呪われることを、わたしは知っている』」

バラムの名声は「あなたが祝福する者は祝福され、あなたが呪う者は呪われる」(民数記第22章6節)ということでした。民数記第22章から24章全体を読んだなら、バラムは当初は神に敬虔だったことがわかるでしょう。バラクの家臣たちが交渉に来たとき、まず彼らの要求を神に確認することだけを約束しました。神がバラムにバラクの家臣と一緒に行ってはならないと告げたとき、バラムはそれに従って、彼らを送り返しました。これは、正しい道を歩いている者がすることであり、バラムもそうしました。バラムが正しい道を歩いていたのは明らかです。しかしバラクはあきらめませんでした。後日、前より大勢の、しかも位の高いバラクのつかさたちがバラムのところを訪れて、偉大な名誉と富を約束し、イスラエルに呪いをかけに来てくれるよう頼みました。神に心から100%従っている者なら、そこで考えることはしなかったでしょう。神はすでにバラクの家臣たちとは一緒に行ってはならないと告げているのですから、彼らを送り返したはずです。しかし、バラムはそうせずに、その代わり、もう一度神に伺いをたてるといいました。神に伺うことをせずに行ってしまうよりは確かにましですが、そこにははっきりとした心変わりが見て取れます。バラクの家臣たちを満足させないまま帰したくない、という意図が見えます。私たちは神が最初に告げたことでは満足できず、自分の欲しい物のために、再び神に泣き付くことがあります。まさにこのことがここで起こったのです。バラムは彼らと一緒に行きたかったのです。断ってしまうには惜しいほどの、贈り物と名誉でした。しかし一方では、彼は神に背くこともしたくありませんでした!もしバラクのところへ行ってイスラエルを呪い、報酬を得ることを、神がお許しになれば、どんなにうれしかったでしょう。時々私達も同様です。私は自分の意思のまま行いたいのです、だから神様、あなたの意思を変えてください、そうすれば万事おさまります、と願うのです。神はこのような状態のバラムを見て、バラクの家臣が再び呼びに来た場合にのみ、行ってもよいと言いました。しかし、翌朝にはもう、バラムはロバに乗って長旅の準備が出来ていました!彼は、誰かが呼ぶまで待ちきれず、一秒も無駄にしたくなかったのです!結果として、神の怒りが燃え上がり、バラムの行く手を立ちふさぐために天使を送りました。バラムのロバが天使を見てそれを避けようとしたため、バラムの命を救いました。天使はバラムに、行ってもよいが神が告げることだけを話しなさいといいました。なぜ、神はバラムに「ただわたしがあなたに告げることだけを告げなさい」(民数記第22章35節)と言わなければならなかったのでしょう。これは神のみことばから離れてしまわないようにという、バラムへの警告でした。後で分かるように、バラムはこの警告に完全には注意を払っていませんでした。やがて、バラムはバラクに会いに行きました。バラクは、バラムがイスラエルを呪いやすくするために、バラムを様々な場所へ連れて行きました。ですが、バラムは神が告げたことを曲げず、ただ神が告げた言葉、すなわちイスラエルを祝福することだけを言いました。バラクはとても怒りました!バラムが3度目にイスラエルを祝福した後、バラクが言いました。「敵に呪いをかけるために招いたのに、見よ、お前は三度も祝福した。 自分の所に逃げ帰るがよい。お前を大いに優遇するつもりでいたが、主がそれを差し止められたのだ」(民数記第24章10節から11節)

バラム:避けるべき模範

バラムは神の面目を保ったように見えます。バラムは神の告げたことだけを話し、バラクのつかさたちと共に行ったにもかかわらず、神がバラムに告げたことだけを話しました。みことばから、それることはありませんでした。では、なぜ後で見るように、ペトロの手紙二第2章15節や他の聖句では、バラムが避けるべき模範として挙げられているのか?と思うかもしれません。確かにバラムはバラクのところへ行きたいと思い、またその贈り物にも目を奪われていたかもしれません。しかし、神が告げたことを変えず、最終的には何も手にせずにそこを去りました。バラムは約束された贈り物と報酬を失うことになるにもかかわらず、神に従いました。それとも、そうではなかったのでしょうか?

バラムはペトロの手紙二とユダの手紙、ヨハネの黙示録の中で、避けるべき模範とされています。今まで見た限りではそれは不当であるように思えるかもしれません。しかし、読み進めるに従って理由が見えてくるでしょう。

民数記第25章1節から5節、9節
「イスラエルがシティムに滞在していたとき、民はモアブの娘たちに従って背信の行為をし始めた。 [モアブの]娘たちは自分たちの神々に犠牲をささげるときに民を招き、民はその食事に加わって娘たちの神々を拝んだ。 イスラエルはこうして、ペオルのバアルを慕ったので、主はイスラエルに対して憤られた。 主はモーセに言われた。『民の長たちをことごとく捕らえ、主の御前で彼らを処刑し、白日の下にさらしなさい。そうすれば、主の憤りはイスラエルから去るであろう』 モーセはイスラエルの裁判人たちに言った。『おのおの、自分の配下で、ペオルのバアルを慕った者を殺しなさい』 ・・・この災害で死んだ者は二万四千人であった」

モアブの娘達はどのようにしてイスラエルの民を誘惑する方法を知ったのでしょう?どうやって彼らに背信を犯させて、自分達の神々に犠牲をささげ、偽りの神を拝ませることができたのでしょう?これは神のみこころをそこないました。神の怒りが燃え上がり、続いて怒った災害で24,000人のイスラエルの民が命を失いました。実際には誰がイスラエルにこのような破滅をもたらす邪悪な計画を考え出したのでしょう?民数記第31章15節から16節とヨハネの黙示録第2章14節に答えがあります。

民数記第31章15節から16節
「彼らにこう言った。『女たちを皆、生かしておいたのか。 ペオルの事件は、この女たちがバラムに唆され、イスラエルの人々を主に背かせて引き起こしたもので、そのために、主の共同体に災いがくだったではないか』」

ヨハネの黙示録第2章14節(主イエスがペルガモンの教会の天使に語っている)
「しかし、あなたに対して少しばかり言うべきことがある。あなたのところには、バラムの教えを奉ずる者がいる。バラムは、イスラエルの子らの前につまずきとなるものを置くようにバラクに教えた。それは、彼らに偶像に献げた肉を食べさせ、みだらなこと をさせるためだった」

モアブの娘達にどうすればイスラエルがつまずくかを教えた者はバラムでした。バラムがいかに贈り物や名誉に心を奪われていったかは、すでに見たとおりです。ペトロの手紙二第2章15節から16節ではバラムがそれらを愛していたと語っています。

ペトロの手紙二第2章15節から16節
「彼らは、正しい道から離れてさまよい歩き、ボソルの子バラムが歩んだ道をたどったのです。バラムは不義のもうけを好み、 それで、その過ちに対するとがめを受けました。ものを言えないろばが人間の声で話して、この預言者の常軌を逸した行いをやめさせたのです」

民数記第24章までは、バラムは神の預言者、神の代弁者であり、正しい道を歩いていました。しかし、最後までそうではありませんでした。「不義のもうけを好んだ」ために、次第に道からはずれていきました。出発点は良かったのに、ひどい終わり方をしました。正しい道から出発することだけでなく、その道を最後まで歩くことがとても重要です。バラムは始めは良かったのに、継続できませんでした。最後には、イスラエルがミデイアン1を奪ったときに民から殺されてしまいました。バラムが死んだときの記録では(ヨシュア記第13章22節)、もはや「預言者」ではなく、「占い師」と呼ばれていました。バラムは神の代弁者である預言者として出発しましたが、最後には神の敵である「占い師」と成り果てました。

ペトロの手紙二とユダの手紙の中のバラム

バラムは神の代弁者から、神の民の前につまずきとなるものを置く偽教師となってしまいました。(ヨハネの黙示録第2章14節)正しい道にいたのに、そこから離れてさまよい歩いてしまいました。これが、新約聖書において、違った著者から3度も避けるべき模範として挙げられている理由でしょう。すでにヨハネの黙示録の関連のある箇所を見ましたが、ここにペトロの手紙二とユダの手紙から2ヶ所に渡って別の記述があります。

ペトロの手紙二第2章15節から16節
彼らは、正しい道から離れてさまよい歩き、ボソルの子バラムが歩んだ道をたどったのです。バラムは不義のもうけを好み、 それで、その過ちに対するとがめを受けました。ものを言えないろばが人間の声で話して、この預言者の常軌を逸した行いをやめさせたのです」

そして、ユダの手紙11 節
「不幸な者たちです。彼らは『カインの道』をたどり、金もうけのために『バラムの迷い』に陥り、『コラの反逆』によって滅んでしまうのです」

ペトロの手紙二もユダの手紙もバラムの道を歩む者について語っています。それはどんな人たちでしょうか?何をしたのでしょう?バラムと類似点があるでしょうか、もしそうならそれは何でしょう?この旧約聖書の人物は、今日の恵みの世とどう関係しているのでしょう?答えは聖書の中にあります。まずペトロの手紙二から見てみると、「彼ら」という言葉は初めの節に出てきます。こう書かれてあります。

ペトロの手紙二 第2章1節から3節
「かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、 しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。 彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします。このような者たちに対する裁きは、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはありません」

これらの偽教師についてはさらなる情報があります。しかし、まずその原点をはっきりとさせましょう。1節、15節そして20節から21節を見れば明白です。こう読み取れます。

ペトロの手紙二第2章1節
「かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、」

ペトロの手紙二第2章15節
「彼らは、正しい道から離れてさまよい歩き」

そして、ペトロの手紙二 第2章20節から21節
「わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。 義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟かえら離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに」

上記から明らかなように:

• これらは主に贖われた人々である

• わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って2世の汚れから逃れた人たちである

• 義の道を知っていて、自分たちに伝えられた聖なる掟があった3

• 正しい道から離れてしまった。言いかえれば、かつては正しい道を歩いていた。

ここで聖書が語る偽教師とは、不信者ではなく信者であり、正確に言うならば、初めは信者だった人々です。その他の誰が主に贖われ、救い主イエス・キリストを深く知って、伝えられた聖なる掟を持っていたというのでしょう?バラムのように、彼らは正しい道から出発したものの、そこから離れて偽教師となり、滅びをもたらす異端を持ち込み、うそ偽りで神の民を食い物にするのです!「自分たちを贖ってくださった主を拒否」する者を見かける事が少ないからといって、偽教師たちに注意を払う必要がないと考えていたら、それは間違いです。 神はペテロの手紙二とユダの手紙の大部分を割いて、これら詐欺師について語っています。神のみことばが「注意しなさい」と言うなら、それは本当に重要な事なのです。テモテへの手紙二第2章15節はこう語っています。

テモテへの手紙二 第2章15節
「あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい」

真理の言葉を正しく伝えるのは私達の努めであり、そこに固い基礎がなければ、あちこちにいる偽教師から身を守ることは不可能です。ペテロの手紙二に戻ってみると、10節から22節にこれら背く者について続けて語られています。

ペトロの手紙二第2章10節から22節
「特に、汚れた情欲の赴くままに肉に従って歩み、権威を侮る者たちを、そのように扱われるのです。彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。 天使たちは、力も権能もはるかにまさっているにもかかわらず、主の御前で彼らをそしったり訴え出たりはしません。 この者たちは、捕らえられ、殺されるために生まれてきた理性のない動物と同じで、知りもしないことをそしるのです。そういった動物が滅びるように、彼らも滅んでしまいます。 不義を行う者は、不義にふさわしい報いを受けます。彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています。彼らは汚れやきずのようなもので、あなたがたと宴席に連なるとき、はめを外して騒ぎます。 その目は絶えず姦通の相手を求め、飽くことなく罪を重ねています。彼らは心の定まらない人々を誘惑し、その心は強欲におぼれ、呪いの子になっています。 彼らは、正しい道から離れてさまよい歩き、ボソルの子バラムが歩んだ道をたどったのです。バラムは不義のもうけを好み、 それで、その過ちに対するとがめを受けました。ものを言えないろばが人間の声で話して、この預言者の常軌を逸した行いをやめさせたのです。この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗闇が用意されているのです。彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです。わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。ことわざに、/『犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る』また、/『豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る』と言われているとおりのことが彼らの身に起こっているのです」

神はペトロの手紙二の大部分を割いて偽教師達について説明しています。彼らの多くは何世紀も経て今日も、力や金銭、名誉のためといった自分勝手な理由で、神とキリストの名前を用いています。彼らが従っているのはキリストの模範ではなく、バラムのそれです。ペトロの手紙二を見れば、彼らの最後に疑問の余地はありません。今、読んだように、

• 自分の身に速やかな滅びを招きます(ペトロの手紙二第2章1節)

• このような者たちに対する裁きは、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはありません。(ペトロの手紙二第2章3節)

• 「わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。ことわざに、/『犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る』また、/『豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る』と言われているとおりのことが彼らの身に起こっているのです」(ペトロの手紙二  第2章20節から22節)

• 「この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗闇が用意されているのです」(ペトロの手紙二 第2章17節)

偽教師に用意されているのは、救いではなく「深い暗闇」です。「救いは神の恵みによってあたえられた賜物ではないのか?」という人もいるでしょう。たしかにそうです。救いは恵みにより、信仰によって与えられる神の賜物です。(エフェソの信徒への手紙第2章8節)しかし主を否定する人々がいるのも確かです-それゆえに信仰も否定します-、神の民を食い物にする神の敵になってになって自分の身に速やかな滅びを招きます。彼らは実にバラムと同類です。バラムは正しい道にいたのに、さまよって、真の預言者から神の民につまずきを置く神の敵、偽教師になってしまいました。彼らには深い暗闇が用意されているのです。ペトロの手紙二によると、「義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに」(ペトロの手紙二第2章21節)とあります。

ユダの手紙

バラムはユダの手紙の中でも、ペトロの手紙二と同様の背景で言及されています。ユダは彼の手紙を次にように書き始めています。

ユダの手紙 3 節
「愛する人たち、わたしたちが共にあずかる救いについて書き送りたいと、ひたすら願っておりました。あなたがたに手紙を書いて、聖なる者たちに一度伝えられた信仰のために戦うことを、勧めなければならないと思ったからです」

ユダは彼の書簡を通して信者達に、聖なる者たちに一度伝えられた信仰のために戦うことを、勧めなければならないと思いました。明らかにこの信仰は攻撃を受けていました。この信仰は今も攻撃を受けていて、敵はここにいる限り、攻撃を緩めることは無いでしょう。私達はこの信仰のために戦わなければならず、ユダは一章分の手紙の中にその理由を述べています。

ユダの手紙 4節から19節
「なぜなら、ある者たち、つまり、次のような裁きを受けると昔から書かれている不信心な者たちが、ひそかに紛れ込んで来て、わたしたちの神の恵みをみだらな楽しみに変え、また、唯一の支配者であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからです。あなたがたは万事心得ていますが、思い出してほしい。主は民を一度エジプトの地から救い出し、その後、信じなかった者たちを滅ぼされたのです。一方、自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています。しかし、同じようにこの夢想家たちも、身を汚し、権威を認めようとはせず、栄光ある者たちをあざけるのです。大天使ミカエルは、モーセの遺体のことで悪魔と言い争ったとき、あえてののしって相手を裁こうとはせず、「主がお前を懲らしめてくださるように」と言いました。この夢想家たちは、知らないことをののしり、分別のない動物のように、本能的に知っている事柄によって自滅します。不幸な者たちです。彼らは「カインの道」をたどり、金もうけのために「バラムの迷い」に陥り、「コラの反逆」によって滅んでしまうのです。こういう者たちは、厚かましく食事に割り込み、わが身を養い、あなたがたの親ぼくの食事を汚すしみ、風に追われて雨を降らさぬ雲、実らず根こぎにされて枯れ果ててしまった晩秋の木、わが身の恥を泡に吹き出す海の荒波、永遠に暗闇が待ちもうける迷い星です。アダムから数えて七代目に当たるエノクも、彼らについてこう預言しました。「見よ、主は数知れない聖なる者たちを引き連れて来られる。それは、すべての人を裁くため、また不信心な生き方をした者たちのすべての不信心な行い、および、不信心な罪人が主に対して口にしたすべての暴言について皆を責めるためである。」こういう者たちは、自分の運命について不平不満を鳴らし、欲望のままにふるまい、大言壮語し、利益のために人にこびへつらいます。愛する人たち、わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語った言葉を思い出しなさい。彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、あざける者どもが現れ、不信心な欲望のままにふるまう。」この者たちは、分裂を引き起こし、この世の命のままに生き、霊を持たない者です」

これらの人々は、すくなくともその結果を考えるとペトロの手紙二でみた人たちと同様に見えます。彼らは自分たちのことをクリスチャンと自称さえする詐欺師です。これらの偽教師によって、−そして今日も偽教師は沢山盛んに働いています− ユダは信者に、一度伝えられた信仰のために戦うことを勧めなければならないと思ったのです。私達は信仰のために戦わなければなりません!教義ではなく、律法でも、人間の言い伝えでもなくそれがだれであろうと、聖書が私たちの信仰の土台なのです。コロサイの信徒への手紙第2章8節ではこう警告しています。

コロサイの信徒への手紙第2章8節
「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません」

また、ヨハネの手紙二 7節から8節にはこうあります。
「このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。気をつけて、わたしたちが努力して得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい」

またユダとペトロは言っています

ユダの手紙 20節から25節
「しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい」

ペトロの手紙二 第3章14節18節
「だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。それは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、神から授かった知恵に基づいて、あなたがたに書き送ったことでもあります。彼は、どの手紙の中でもこのことについて述べています。その手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています。それで、愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳な者たちに唆されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい。わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。このイエス・キリストに、今も、また永遠に栄光がありますように、アーメン」

「あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳な者たちに唆されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい」私達の誰もが「不道徳な者たちに唆され」かねないのです。誰でもこの警告にあてはまります。バラムは正しい道を出発しましたが、結局はそこから離れてしまいました。「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい」とペトロは続けて言っています。「注意する」のは、私たちがすべき事の一つであり、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において成長することも、またそうです。

私達の周りには多くの詐欺師がいます。キリストの体である信者の中にさえです。-ですからペトロとユダは信者に呼びかけます-詐欺師の嘘の教えから守られる唯一の方法は、混じりけの無いみことばの乳に心を向けることです。岩の上に建てた家は、何が向かってきても倒れることはありません。すなわちキリストが言っているのは、神のみことばを聞いてそれを行うことです。(マタイによる福音書 第7章24節から25節)バラムは神のみことばを知っていましたし、実際にある時点まではそれに従っていました。しかし一度、富と名誉への欲望に押しつぶされると、彼はさまよってしまいました。彼とは対照的に、私達は正しい道を行かねばなりません。その道は神のみことばを知り、また何があろうとそれを行うことです。レースを初め、走りゴールして、神様の私達への報酬を収穫しましょう。

ヘブライ人への手紙第12章1b節から2節
「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」

タソス・キオラチョグロ(Tassos Kioulachoglou)

日本語: Tsukasa Ugaeri 

Bible Copyright: ©共同訳聖書実行委員会Executive Committee of The Common Bible Translation

 

 



脚注

1. この時バラムはメソポタミアから移り、イスラエルの敵と一緒にミディアンの土地に住んでいた

2. ここでの「知る」という言葉はギリシャ語の“επίγνωσις”(エピグノシス)で、「正確または完全な知識」、「正確またはさらに深い知識、完璧な知識、真の知識」の意。(単に「知識」を意味する「グノウシス」の反意語として)

3. 再びここで使われている「知る」という動詞は、“επίγνωσις”(エピグノシス)で、「十分に知っている」「徹底的かつ正確に知っている」の意。(脚注2を参照)