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ギデオン:聖書の学び(士師記第6章・7章) (PDF) PDF版

ギデオン:聖書の学び(士師記第6章・7章)

聖書、特に旧約聖書には、神が多くの人を通して働かれるその御業についての記録がたくさん詰まっています。その多くの人の一人がギデオンでした。本稿はギデオンの人生を通しての聖書の学びです。

ギデオン:生い立ち(士師記第6章1節から10節)

 この時代についてですが、この時イスラエルは士師によって治められていました。ギデオンの前がデボラで、神の女性として「国は四十年にわたって平穏であった」(士師記第5章31節)時代に治めていました。しかし、この平穏は永遠に続きませんでした。士師記第6章1節から6節に書かれています。

士師記第6章1節から6節
イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行った。主は彼らを七年間、ミディアン人の手に渡された。ミディアン人の手がイスラエルに脅威となったので、イスラエルの人々は彼らを避けるために山の洞窟や、洞穴、要塞を利用した。イスラエルが種を蒔くと、決まってミディアン人は、アマレク人や東方の諸民族と共に上って来て攻めたてた。彼らはイスラエルの人々に対して陣を敷き、この地の産物をガザに至るまで荒らし、命の糧となるものは羊も牛もろばも何も残さなかった。彼らは家畜と共に、天幕を携えて上って来たが、それはいなごの大群のようで、人もらくだも数知れなかった。彼らは来て、この地を荒らしまわっ た。イスラエルは、ミディアン人のために甚だしく衰えたので、イスラエルの人々は主に助けを求めて叫んだ。」

 40年間の平穏な時代の後、イスラエルはミディアン人の激しい抑圧に耐えることとなりました。聖句が語っているように、ミディアン人はイスラエルの人々の土地を滅ぼし、「命の糧となるものは羊も牛もろばも何も残さなかった」ほどにしました。(士師記第6章4節)しかし、これらの災いは偶然に起きたことではありませんでした。士師記第6章1節にその理由が書かれています。  

士師記第6章1節
「イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行った。主は彼らを七年間、ミディアン人の手に渡された。」

 「イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行った。」これがこの抑圧が起きた理由でありましたが、1それでもなお、良い結果も生みました。士師記第6章6節が語っています。

士師記第6章6節
「イスラエルは、ミディアン人のために甚だしく衰えたので、イスラエルの人々は主に助けを求めて叫んだ。」

 イスラエルがこのような行動を起こしたのはこれが初めてではありませんでした。これまで何回も神の目に悪とされたことを行い、偶像を礼拝し、このような災いが降りかかると、彼らは神に立ち返り、神を求めました。2士師記第6章7節から10節に、神が彼らの叫びにどのように答えられたのかが書かれています。

士師記第6章6節から10節
「イスラエルは、ミディアン人のために甚だしく衰えたので、イスラエルの人々は主に助けを求めて叫んだ。イスラエルの人々がミディアン人のことで主に助けを求めて叫ぶと、主は一人の預言者をイスラエルの人々に遣わされた。預言者は語った。「イスラエルの神、主はこう言われる。わたしはエジプトからあなたたちを導 き上り、奴隷の家から導き出した。わたしはあなたたちをエジプトの手からだけでなく、あらゆる抑圧者の手から救い出し、あなたたちの赴く前に彼らを追い払って、その地をあなたた ちに与えた。わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちはアモリ人の国に住んでいても、アモリ人の神を畏れ敬ってはならない、とわたしは告げておいた。だがあなたたちは、わたしの声に聞き従わなかった。」

 イスラエルの叫びに対して、神はご自身の言葉を語る預言者を与え、これまでの彼らの言動を非難しました。しかし、これはまだ始まりの段階でした。次を読み進むと、神が他に何をされたのかが分かります。

ギデオン:始まり(士師記第6章11節から35節)

 神が預言者を送り、イスラエルを非難した後に、神はギデオンという人に語りました。士師記第6章11節から12節に書いてあります。

士師記第6章11節から12節
「さて、主の御使いが来て、オフラにあるテレビンの木の下に座った。これはアビエゼルの人ヨアシュのものであった。その子ギデオンは、ミディアン人に奪われ るのを免れるため、酒ぶねの中で小麦を打っていた。主の御使いは彼に現れて言った。「勇者よ、主はあなたと共におられます。」」

ギデオンの前に天使が現れた箇所を読む時、金髪で白衣を着て2つの白い羽をつけて飛んでいる天使の姿を思い浮かべないようにしましょう。そのような天使の姿は作り話や想像の話のものに過ぎません。実に聖書には、天使に羽があることや、白衣を着ていることや、金髪であることなどは書かれていません。聖書が語るところの天使とは、「奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされた」(ヘブライ人への手紙第1章14節)存在です。

 本題に戻りますが、神がこの天使を通してギデオンに挨拶をしている様子を見てください。天使は、ギデオンを「勇者よ」と呼びました。一方ギデオンは、ミディアン人から隠すために小麦を打っていたような貧しい者でした。しかし神にとって彼は、「勇者」であり、これから見ていきますが、神を信じ従う者であり、神の命じたことを全て従い行う者でした。次の聖句でギデオンが天使の挨拶に答えている姿が書かれています。

士師記第6章13節から14節
「ギデオンは彼に言った。「わたしの主よ、お願いします。主なる神がわたしたちと共においでになるのでしたら、なぜこのようなことがわたしたちにふりかかっ たのですか。先祖が、『主は、我々をエジプトから導き上られたではないか』と言って語り伝えた、驚くべき御業はすべてどうなってしまったのですか。今、主 はわたしたちを見放し、ミディアン人の手に渡してしまわれました。」主は彼の方を向いて言われた。「あなたのその力をもって行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことができる。わたし があなたを遣わすのではないか。」」

 ギデオンは、このような災いが降りかかる中で、どのように神が共におられると言えるのかと、質問しました。しかし結局は、神が彼らと共にいなかったのでなく、彼らが神と共にいなかったのでした。ギデオンの質問に対して、神は前に進むこと、そしてギデオン自身がイスラエルを救う者であることを伝えました。「わたしがあなたを遣わすのではないか」と神はギデオンに言いました。実に、神こそが彼を遣わしたのでした。この使命はギデオンが作り出したものではありませんでした。彼はただ、ミディアン人たちから隠すために小麦を打っていただけなのですから!士師記第6章15節から16節にギデオンの返答が書かれています。

士師記第6章15節から16節
「彼は言った。「わたしの主よ、お願いします。しかし、どうすればイスラエルを救うことができましょう。わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。 それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。」主は彼に言われた。「わたしがあなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる。」

 従うべき者がすでに王や将軍のようにすでに権力を持つ存在であれば、人々は従いやすいものです。しかし、ギデオンのような者に誰が従うでしょうか?彼は無名の人でした。それでもなお再び神は、ギデオンと共にいることを約束しました。神は、「わたしがあなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる。」と言いました。だからこそギデオンは恐れる理由がなかったのです。しかしギデオンにはまだ疑いの気持ちがありました。

士師記第6章17節から24節
「彼は言った。「もし御目にかないますなら、あなたがわたしにお告げになるのだというしるしを見せてください。どうか、わたしが戻って来るまでここを離れないでください。供え物を持って来て、御前におささげしますから。」主は、「あなたが帰って来るまで ここにいる」と言われた。ギデオンは行って、子山羊一匹、麦粉一エファの酵母を入れないパンを調え、肉を籠に、肉汁を壺に入れ、テレビンの木の下にいる方に差し出した。神の御使いは、「肉とパンを取ってこの岩の上に置き、肉汁を注ぎなさい」と言った。ギデオンはそのとおりにした。主の御使いは、手にしていた杖の先を差し伸べ、肉とパンに触れた。すると、岩から火が燃え上がり、肉とパンを焼き尽くした。主の御使いは消えて いた。ギデオンは、この方が主の御使いであることを悟った。ギデオンは言った。「ああ、主なる神よ。わたしは、なんと顔と顔を合わせて主の御使いを見 てしまいました。」主は彼に言われた。「安心せよ。恐れるな。あなたが死ぬことはない。」ギデオンはそこに主のための祭壇を築き、「平和の主」と名付けた。それは今日もなお、アビエゼルのオフラにあってそう呼ばれている。」 

ギデオンが神に示しを求めたのは、この時だけではありません。読んでいくとさらに、同じような場面があります。そのうちの1つが有名な羊の毛の示しです。ここではギデオンが求めた示しについてのことは置いておき、示しを求めることについてお話します。ギデオンは示しを求める前に、自分が置かれている状況での神のみこころについてすでに分かっていたことが予想できます。ギデオンは神のみこころを決定付けるために示しを求めたわけではありませんでした。そうではなく、神が彼に伝えたこと、すなわち神のみこころを確認するためでした。この願いに対して、神は前向きに答え、彼の願ったものを示しました。

 神とギデオンとのやり取りは夜まで続きました。士師記第6章25節から27節に語られています。

「その夜、主はギデオンに言われた。「あなたの父の若い雄牛一頭、すなわち七歳になる第二の若い牛を連れ出し、あなたの父のものであるバアルの祭壇を壊し、 その傍らのアシェラ像を切り倒せ。あなたの神、主のために、この砦の頂上に、よく整えられた祭壇を造り、切り倒したアシェラ像を薪にして、あの第二の雄牛を焼き尽くす献げ物とし てささげよ。」ギデオンは召し使いの中から十人を選び、主がお命じになったとおりにした。だが、父の家族と町の人々を恐れて日中を避け、夜中にこれを行った。」

神はギデオンに、バアルの祭壇を壊し、像を切り倒すことを命じました。祭壇と像の存在、そしてこれらが破壊された時の人々の反応は怒りに満ちていました。(士師記第6章28節から30節を参照)その姿は読み進むとわかりますが、その姿こそ、イスラエルが神の目に悪である偶像礼拝を行っている姿でした。そしてこの事を通して、全てのイスラエルではなくほんの一部しか主に立ち返り、主を求めなかったことが分かります。しかしながら、主はその一部の人々の姿を見て、イスラエル全てを助けるのです。

 これまで、イスラエルが神に向かって叫んだ後にどのように神がギデオンに現れたのか、そしてギデオンがイスラエルを救う者であることを神がどのように告げたのかを見てきました。その次の聖句を読みましょう。

士師記第6章33節から35節
「ミディアン人、アマレク人、東方の諸民族が皆結束して川を渡って来て、イズレエルの平野に陣を敷いた。主の霊がギデオンを覆った。ギデオンが角笛を吹くと、アビエゼルは彼に従って集まって来た。彼がマナセの隅々にまで使者を送ると、そこの人々もまた彼に従って集まって来た。アシェル、ゼブルン、ナフタリにも使者を遣わすと、彼らも上っ て来て合流した。」

 イスラエルの敵である「ミディアン人、アマレク人、東方の諸民族」全てが一箇所に集まりました。この時神は、ギデオンを促し、イスラエルに使者を送りギデオンの元に集まることを伝えるようにしました。この箇所を見ると、神がギデオンに働き、人々を集め、戦いを始める決断をしたことが分かります。神がその戦いの計画を立て、ギデオンがその計画を遂行したのでした。神のギデオンに対する働きかけがなければ、ギデオンは神の求めることを行うことはできませんでした。そして神が言うことを信じ行うギデオンがいなければ、神の計画は実現しなかったのです。この戦いの成功の源は、司令官である神と神の計画を遂行するギデオンの双方がいたことでした。決断をして実行したギデオンではなく、決断をした神と実行したギデオンだったのです。この法則は私たちにとっての神のみこころに関しても同じことが言えます。神が御言葉や示しを通して語るみこころに対して私たちは従い歩む必要があります。

ギデオンと羊の毛(士師記第6章36節から40節)

 イスラエルがギデオンの背後に集められてから、ギデオンは再び神に示しを求めました。士師記第6章36節から38節が語っています。

士師記第6章36節から40節
「ギデオンは神にこう言った。「もしお告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっているなら、羊一匹分の毛を麦打ち場に置きますから、その羊の毛にだけ露を置き、土は全く乾いているようにしてください。そうすれば、お告げになったよう に、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっていることが納得できます。」 すると、そのようになった。翌朝早く起き、彼が羊の毛を押さえて、その羊の毛から露を絞り出すと、鉢は水でいっぱいになった。ギデオンはまた神に言った。「どうかお怒りにならず、もう一度言わせてください。もう一度だけ羊の毛で試すのを許し、羊の毛だけが乾いていて、 土には一面露が置かれているようにしてください。」その夜、神はそのようにされた。羊の毛だけは乾いており、土には一面露が置かれていた。」

以上の聖句は「ギデオンの羊の毛」として知られている箇所です。しかし、残念ながら多くの人々によって間違って解釈されており、神のみこころを示しを通して決定付ける人が多いのです。ですからある人はコインを投げて神のみこころを決定付けるのです。ある人は「聖書ビンゴ」(聖書を適当に開いてその聖句を読むこと)やその他似たような方法を用いています。これらの方法と「ギデオンの羊の毛」の話をどう結びつけようが、それらは間違っています。なぜなら、ギデオンはこの羊の毛の示しを通して、神のみこころを決定付けることはしなかったからです。羊の毛を置くことによって、彼はすでに神の示しによって分かっていたことが神のみこころかどうか確認したかったのです。 実に、士師記第6章36節に、「もしお告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっているなら・・・」と書かれています。「お告げになったように」の部分から、ギデオンがすでに神のみこころを知っていたことが分かります。したがって、ギデオンは神のみこころを決定付けるために示しを求めたのではありませんでした。そうではなく彼は、すでに神のみこころであると知っていたことを確認するために示しを求めたのでした。示しについてもう一つ加えておくべきことがあります。聖書には、神が御言葉や神ご自身の表れを通して、すでに私たちに示している神のみこころについて示しを用いて語るということは書いてありません。私たちは神のみこころが分からない時、探し求めます。聖書を学び、聖書で見つけられない場合は、神に示してくださるように祈り求めます。私たちは神に対して制約を与えたり、神からの答えを頂く時を前もって予定したり、答えそのものを事前に形作ろうとしてはいけません。御言葉は、神は私たちが欲しい時に欲しい答えをくださる方だとは語っていません。そうではなく神は、神のご性質であられる愛と思いやりをもって、私たちに最善の答えを神の視点での最前の時に与えてくださるお方です。示しを求めることについてですが、御言葉を土台にして言いますと、神は必ず私たちがみこころに従うことを助けてくださいます。(もちろん私たちがそれを望めばです。)しかし、私たちの方から、神がどのように助けてくださるかを、神に対して制約づけることはできません。神はご自身が最善とされることだけを行う方です。ここに神のみこころであるとしたら、土が濡れている中、羊の毛だけが乾いていることや、聖書ビンゴやその他の方法で御言葉を示すことや、その他あらゆる方法を用いて、私たちにそのみこころを知ることができるように助けてくださいます。私たちが神のみこころに従うために、神が示しを用いないとは言っていません。しかしながら、それらが与えられた場合、それが御言葉の代わりとなってはいけません。それらは聖書や神ご自身の表れを通して神が私たちにすでに示していること、つまり神のみこころを信じる助けでしかないのです。

 示しについての論議を少し深くしますが、私は、最高の示しは神から来るものであり、それに付属する形で現れるものではないと信じています。神から来るものは全て、神の御言葉と一致しています。箴言第10章22節にこう書かれています。

箴言第10章22節
「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない。」

また、エフェソの信徒への手紙第3章20節に神について書かれています。
「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、」

さらにヤコブの手紙第1章16節から17節も加えて語っています。

 「わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。」

 神から来る全てが完全な賜物なのです。それは私たちが願ったり考えたりすることよりも優れています。そこには悲しみはありません。短期的に見ても、中期的に見ても、長期的に見ても、それは完全なものです。一方で、悪から来るものは、遅かれ早かれ正反対の結果を生みます。涙、痛み、傷3などです。これは決して、迫害に伴うものは神から来るものではないという意味ではありません。御言葉は明確に語っています。「あなたがたには世で苦難がある。」(ヨハネによる福音書第16章33節)と。しかしながら、例え苦難の中にあっても私たちは、神に従う者に与えられる神からの安らぎと励ましを頂くことができます。これは誰も取り払うことはできません。

ギデオン:ミディアン人を滅ぼす(士師記第7章)

 ギデオンの話に戻りますが、羊の毛の奇跡の後、彼は強められました。しかし、戦いの時はまだ来ませんでした。実は、イスラエルがギデオンの元に集まり、膨大な数の敵に直面しているにも関わらず、神はギデオンに対して味方の軍を減らすように命じました!士師記第7章1節から2節にこうあります。

士師記第7章1節から2節
「エルバアル、つまりギデオンと彼の率いるすべての民は朝早く起き、エン・ハロドのほとりに陣を敷いた。ミディアンの陣営はその北側、平野にあるモレの丘の ふもとにあった。主はギデオンに言われた。「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向 かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。」

 神はイスラエルに、神が神であること、そしてこの神こそが膨大な数の敵から救うことができる神であることを示したいと願われました。だから神はギデオンに軍を減らすように命じたのです。士師記第7章3節から8節にこう書かれています。

士師記第7章3節から8節
「それゆえ今、民にこう呼びかけて聞かせよ。恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ、と。」こうして民の中から二万二千人が帰り、一万人が残っ た。主はギデオンに言われた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ。そこで、あなたのために彼らをえり分けることにする。あなたと共に行く べきだとわたしが告げる者はあなたと共に行き、あなたと共に行くべきではないと告げる者は行かせてはならない。」彼は民を連れて水辺に下った。主はギデオンに言われた。「犬のように舌で水をなめる者、すなわち膝をついてかがんで水を飲む者はすべて別にしな さい。」水を手にすくってすすった者の数は三百人であった。他の民は皆膝をついてかがんで水を飲んだ。主はギデオンに言われた。「手から水をすすった三百人をもって、わたしはあなたたちを救い、ミディアン人をあなたの手に渡そう。他の民はそれぞ れ自分の所に帰しなさい。」その民の糧食と角笛は三百人が受け取った。彼はすべてのイスラエル人をそれぞれ自分の天幕に帰らせたが、その三百人だけは引き留めておいた。ミ ディアン人の陣営は下に広がる平野にあった。」

 神の選定がされた後、最終的に300人が残りました。彼らを用いて、神は膨大な数の敵であるミディアン人とその陣営を倒すと言いました。軍の人数が劇的に減ったにも関わらず、この戦いでイスラエルが勝利を挙げることは神がギデオンに語ったことを通して確かなものでした。実に、神はギデオンにこう言いました。「三百人をもって、わたしはあなたたちを救い、ミディアン人をあなたの手に渡そう。」(士師記第7章7節)ですからこのことは確かなことであり、ギデオンが神の命令を信じ従えば、戦いはイスラエルの勝利に終わることが神によって約束されていました。しかしながら、神は戦いの結果が勝利に終わる確信を与えただけでなく、ギデオンがこの約束を信じ、前に進むことができるように助けました。士師記第7章9節から14節が語っています。

士師記第7章9節から14節
「その夜、主は彼に言われた。「起きて敵陣に下って行け。わたしは彼らをあなたの手に渡す。もし下って行くのが恐ろしいなら、従者プラを連れて敵陣に下り、彼らが何を話し合っているかを聞け。そうすればあなたの手に力が加わり、敵陣の中に下って行くことができる。」彼は従者プラを連れて、敵陣の武 装兵のいる前線に下って行った。ミディアン人、アマレク人、東方の諸民族は、いなごのように数多く、平野に横たわっていた。らくだも海辺の砂のように数多く、数えきれなかっ た。ギデオンが来てみると、一人の男が仲間に夢の話をしていた。「わたしは夢を見た。大麦の丸いパンがミディアンの陣営に転がり込み、天幕まで達し て一撃を与え、これを倒し、ひっくり返した。こうして天幕は倒れてしまった。」仲間は答えた。「それは、イスラエルの者ヨアシュの子ギデオンの剣にちがいない。神は、ミディアン人とその陣営を、すべて彼の手に渡されたの だ。」

 神はギデオンに対してご自身のみこころを示しただけでなく、ギデオンが信じることができるように何度も何度も助けました。ここで神がなされた素晴らしいことを見てください。神はギデオンを敵地に送り、ギデオンが自分の耳で、自分たちがどのようにミディアン人に打ち勝つのかを聞くようにされたのです。この助けの結果が15節に書かれています。読みましょう。

士師記第7章15節
「ギデオンは、その夢の話と解釈を聞いてひれ伏し、イスラエルの陣営に帰って、言った。「立て。主はミディアン人の陣営をあなたたちの手に渡してくださった。」」

 ギデオンが夢とその解釈について聞いた瞬間、ギデオンは主が敵軍を自分たちの手に渡されたことを確信しました。

士師記第7章16節から22節
「彼は三百人を三つの小隊に分け、全員に角笛と空の水がめを持たせた。その水がめの中には松明を入れさせ、彼らに言った。「わたしを見て、わたしのするとおりにせよ。わたしが敵陣の端に着いたら、わたしがするとおりにせよ。わたしとわたしの率いる者が角笛を吹いたら、あなたたちも敵の陣営全体を包囲して角笛を吹き、『主のために、ギデオンのために』と叫ぶのだ。」 ギデオンと彼の率いる百人が、深夜の更の初めに敵陣の端に着いたとき、ちょうど歩哨が位置についたところであった。彼らは角笛を吹き、持ってい た水がめを砕いた。三つの小隊はそろって角笛を吹き、水がめを割って、松明を左手にかざし、右手で角笛を吹き続け、「主のために、ギデオンのために剣を」と叫ん だ。各自持ち場を守り、敵陣を包囲したので、敵の陣営は至るところで総立ちになり、叫び声をあげて、敗走した。三百人が角笛を吹くと、主は、敵の陣営の至るところで、同士討ちを起こされ、その軍勢はツェレラのベト・シタまで、またタバトの近くのアベル・ メホラの境まで逃走した。」

 ギデオンはこの大胆な戦法に従い、膨大な数の敵軍に対してたった300人で、角笛と水がめを武器として戦い、勝利を得ることができました。もし誰かがここで、なぜそんな戦法で戦ったのかと聞いたならば、答えは明らかです。神がギデオンにそのように命じたからです。実に、ギデオンがイスラエルを救う者だと伝えたのは神だったということを覚えていなければなりません。戦いのためにイスラエルを集めるように伝えたのも神であり、戦いのためにイスラエルの軍を300人にするように命じたのも神でした。そして戦いの前の晩にギデオンに戦いの戦法を伝えたのも神でした。結果はイスラエルの素晴らしい勝利でした。聖句が語るように、「主は、敵の陣営の至るところで、同士討ちを起こされ、その軍勢はツェレラのベト・シタまで、またタバトの近くのアベル・ メホラの境まで逃走した。」のでした。23節から25節に、この戦いの素晴らしい勝利の結末が書かれています。

士師記7章23節から25節
「イスラエル人はナフタリ、アシェル、全マナセから集まり、ミディアン人を追撃した。ギデオンは、使者をエフライム山地の至るところに送って、言った。「下って来て、ミディアン人を迎え撃ち、ベト・バラまでの水場とヨルダン川を 占領せよ。」エフライム人は皆集まって、ベト・バラまでの水場とヨルダン川を占領した。彼らはミディアンの二人の将軍、オレブとゼエブを捕らえ、オレブをオレブの岩で、ゼエブをゼエブの酒ぶねで殺し、ミディアン人を追撃した。彼ら はオレブとゼエブの首を、ヨルダン川の向こう側にいたギデオンのもとに持って行った。」

 ここで分かるように、戦いの最後では他のイスラエル人も戦いに参加しました。第8章28節に素晴らしい勝利と、ギデオンを通して神が成したイスラエルの救いについて書かれています。

士師記8章28節
「ミディアン人は、イスラエルの人々によって征服されたので、もはや頭をもたげることができず、ギデオンの時代四十年にわたって国は平穏であった。」

イスラエルが主の目に悪を行い、神を見放し、偶像礼拝を行った時、その結果がもたらしたものは困難と貧困でした。しかし、彼らが主に立ち返り神の救いを願い求めた時、神は預言者を送り、御言葉をもって彼らを非難しました。さらに、神はギデオンを彼らのリーダーとしました。ギデオンは貧しく無名の人でしたが、神が命じることを行う意思がありました。そして神はそのギデオンを助け、イスラエルを救うという大きな業を成し遂げるまでの全ての行程において彼を導きました。結果は、イスラエルに素晴らしい救いが与えられ、ギデオンが生きる間は、平穏な時代が続きました。もちろんギデオン自身も豊かに祝されました。士師記第8章29節から32節で語っています。

士師記第8章29節から32節
「ヨアシュの子エルバアルは、自分の家に帰って住んだ。ギデオンには多くの妻がいたので、その腰から出た息子は七十人を数えた。シケムにいた側女も一人の息子を産み、彼はその子をアビメレクと名付けた。ヨアシュの子ギデオンは、やがて長寿を全うして死に、アビエゼルのオフラにある父ヨアシュの墓に葬られた。」

 ギデオンは静かに長寿を全うし、もう敵から小麦を隠すようなことはしなくてもよく、彼の家族と共に平安のうちに過ごしました。

ギデオン:まとめ

ここでまとめを述べます。主から離れることは抑圧と災いをもたらします。しかしながら、例え主から離れたことがあっても、主はいつも私たちを赦し、主に立ち返る者を救われます。

  この事の他に、ここで私たちが読んできた記録の中に教えられることがあります。神が何かを命じる時、神は同時に私たちがその事を成すことができるように助けてくださる方だということです。示しなどが神から与えられた時は、それらが全て神の御言葉と一致していなければならず、神のみこころとしてすでに示されていることを確かにするものでなければなりません。神は私たちに御言葉と聖霊の明示によって神のみこころを知らせます。その過程で必要があれば、必ずその必要は与えられます。それがどのように与えられるかは分かりませんが、分かっている事は、それらの必要が必ず与えられ、ギデオンにとっても十分であったように私たちにとってもみこころを知るのに十分なように与えられるのです。

タソス・キオラチョグロ

 



脚注

1. 残念ながら、聖書の中で「イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行った」と書かれている箇所はここだけではありません。この他にもたくさんあります。(士師記第2章11節から15節、第4章1節から2節、第10章6節、第13章1節、列王記上第11章6節、ネヘミヤ記第9章28節を参照ください。)これらの箇所で、イスラエルの行った悪が偶像礼拝であり、神を見捨てる行為だったことが分かります。また、これらの記録を通して、主の目に悪とされることを行った後は必ず崩壊、災い、抑圧が起きたことも分かります。

2. 士師記第3章7節から9節、第3章12節から15節、第4章3節、第10章10節、ネヘミヤ記第9章28節を参照ください。

3. 悪は示しをも造りだすことができ、それら真実でない示しは私たちをわなに陥れます。だからこそ、私たちは示しに気をつけなければならないのです。私たちを導くものは示しではなく神の御言葉です。神の御言葉に一致していることであれば、全て神から来ているものです。神の御言葉に反しているものは、全て悪から来ているものです。示しは、御言葉に完全に一致する時だけに助けとして与えられるものです。そうでなければ、それらは正当なものではありません。