聖書の事実

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」 (PDF) PDF版

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」

本稿では主にヨハネによる福音書第14章と第15章を考察する。イエスの御業の終盤である。ユダは主を裏切り、敵を導いて主を捕らえ、ついに十字架につけようとしている。この最期の時、イエスは弟子たちに最後の指示を与えられる。これらは極めて重要な指示であり、我々は全神経を集中して傾聴しなければならない。

ヨハネ14章15節から始めましょう。主はこう言われました:

ヨハネ14:15
「あなたがたは、わたしを愛しているなら、わたしの掟を守る。」

戒めと聞くと不快に思う人が多くいます。これは神の恵みに対する歪んだ見方によるもので、恵みと戒めは対立するものと考えられています。したがってこの見解によれば、救いは恵みによるものだから、戒めを守る必要はなく、せいぜい戒めは良いものかもしれないが、守ることは絶対的に必要ではないのです。この見解では必要なのは「信じる」ことだとされます。もし私たちが「信じる」だけで、主の戒めを守ろうとしないなら、深刻な問題はない。したがって、この見解によれば、信仰は心の状態、つまり私が信じていることであり、その信念に従って行動する必要は絶対的にない。それに従って行動すれば望ましいが、そのような行為は義務とは見なされない。そしてここに、主が来て、こうしたすべての精神的な構築物を打ち砕かれる。「わたしを愛しているか」「愛しているなら、わたしの戒めを守りなさい」と主は言われた。誤解の余地を一切残さずに。

今読んだ箇所は、すべての福音書に見られる主の教えを反映しており、主の戒めを守る深い意義を明らかにしている。例えばルカによる福音書6章46-49節にはこう記されている:

ルカによる福音書6:46-49
わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。 わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。 それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」

またマタイによる福音書7:21
わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。

イエスが明らかにしているように、単に「主よ、主よ」と呼ぶだけでは不十分です。私たちはまた、主が語られること、すなわち御父の御心、主の戒めを行わなければなりません。主を主と呼びながら、その戒めを行うことを拒むなら、天の国へは導かれません。私たちはまさにそのことを読みました!ですから、神の御心を行おうとすることは任意の選択ではありません。それは気分次第でやるものではなく、やらなくても構わないものでもない。むしろ、それは義務であり、絶対に不可欠なものである。なぜなら、それなしには天の国に入れないからだ。これが、神の御心を行うことが真の弟子である証となる所以である。十字架を背負って主に従う弟子。滅びへと通じる広い道ではなく、狭い門を選んだ者である。

マタイによる福音書 7:13-14
狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。

そしてマタイによる福音書 16:24-25
「それから、弟子たちに言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」

私たちは主に従いたいのか?ならば、自分を捨て、十字架を背負い、主に従おう。狭い門を通り、命へと続く唯一の道である困難な道を歩もう。大勢が通る広い道、十字架を必要とせず、悔い改めなく世と同じように生きられる「楽な道」は滅びへと通じる。命へと通じるのは困難な道だけである。

しかし、ヨハネの福音書に戻り、主が弟子たちに最後の夜に語られた言葉を思い起こそう。

ヨハネ14:21
わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す

私たちがイエスの戒めを守る時、イエスを愛しているのです。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である」と主は言われました。ですから、イエスを愛することと、その戒めを守ることの二つは、切り離せない関係にあります。戒めを守るなら、私たちは主を愛しているのです。そして、主を愛しているからこそ、その戒めを守るのです。そうでなければ、私たちは真に主を愛しているとは言えません。実際、主は23節と24節でこう言われました:

ヨハネによる福音書14章23-24節
「イエスはこう答えて言われた。『わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしを遣わした父のものである。』」

重要なのは私たちの言葉ではなく、行動です。主を愛していると言いながら、主の言うことを行わないのは、誠実な「愛」の証ではなく、言葉だけの「愛」に過ぎません。たとえ失敗しながらも、主の戒めを守ろうと真に努力することこそが、私たちが主を愛しているかどうかを本当に示すのです。そして、愛する兄弟姉妹よ、もし私たちが主の言葉を保とうと努力するなら、私たちに与えられる約束は何でしょうか?イエスは私たちを愛し、ご自身を現してくださる!そして御父も私たちを愛してくださる!御子と御父が私たちのもとに訪れ、私たちの内に住まいを築いてくださる!私たちはそれを望まないだろうか?御父と御子の住まいとなることを望まないだろうか?イエスがご自身を現してくださることを望まないだろうか?私は心からそれを願う!皆さんもそうだと信じている!しかしそのためには行動が必要だ。私たちは主の戒めを守らなければならない。私たちは自分の十字架を背負い、イエスに従わねばなりません。肉の欲に従って歩んではならず、世の広い道ではなく、狭い門を通らねばなりません。

多くのクリスチャンが主との真の交わりの「秘訣」を求めます。多くの説教者もまた、主との真の交わりを何か秘められたものとして提示し、自分たちがその鍵を知っているかのように語り、私たちがそれを得るには彼らのレシピに従わねばならないと言います。しかし兄弟たちよ、秘訣などありません!すべては明らかである。イエスは完全に明らかにされた:

ヨハネ14:21
わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す

鍵は主の戒め、すなわち御言葉を守ることにある。それを守る者は真に主を愛し、父と子に愛される。父と子はその人の内に住まい、神の子は自らをその人に現す。それほど単純で真実なことなのだ。

„わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である“

イエスはこのことを明らかにした後、ぶどうの木のたとえを語り続けた:

ヨハネ15:1-9
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、ますます豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたはすでに清められている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」

主はこの素晴らしい箇所で、以前に語られたことを続けておられます。主はぶどうの木、私たちはぶどうの木の枝、そして父はぶどう畑の管理人です。枝として、私たちはぶどうの木にとどまらなければなりません。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と主は言われた。もしわたしたちが主に留まるなら、多くの実を結ぶ。もし主に留まらず実を結ばなければ、枯れてしまい、主が言われたように、枯れた枝と同じ末路をたどる。すなわち、集められて火に投げ込まれるのである。こうして私たちは再び、ぶどうの木にとどまること、すなわちイエスを真に愛し、その戒めを守って従うことが、決して任意のものでもなければ、すべての信者に保証されたものでもないことを知る。むしろそれは日々の決断である。主が命じられることを行うか行わないかの決断が日々求められるのと同様である。

ここで、種を蒔く人のたとえが思い浮かびます。そこでは、神の言葉という種が、落ちた四種類の心のうち三種類で芽を出しました。しかし実を結んだのは一つの心の種類だけでした。他の二種類では、結局実を結ばなかったのです。その三種類とは次の通りです:

ルカによる福音書8:13-15
「石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。 そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟すまでに至らない人たちである。 良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」

最初の二つのカテゴリーは御言葉を聞き、信じたが、それを守らなかった。この二つのカテゴリーのうち最初のものは、「しばらくは信じるが、試練の時が来ると離れてしまう」。二つ目は、「聞いた後、出て行って、人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれ、実を結ばない」。実を結んだのは三番目のグループだけだった。他の二グループは残念ながら実を結ばなかった。彼らはおそらく喜びに満ちて輝かしく始まったのだろう。しかし結局、他の事柄や迫害によって心が変わってしまった。確かに彼らはかつて信じた。御言葉はこの二グループのうち最初のグループについて、彼らが「しばらくは信じる」と明言している。彼らは忠実だったが、それは一時的なものに過ぎなかった。兄弟たちよ、一時的に忠実であるだけでは不十分だ。私たちは永遠に、最期の息を引き取るまで忠実でありたい。また、実を結ばない「信者」で、自己に奉仕するだけでは不十分だ。イエスを主、主と呼びながら、その言葉に従うことを拒む者であってはならない。むしろ私たちは実を結ぶ者となり、父の御心を行い、日々、終わりまでイエスの戒めを実行することでイエスに仕えることを確かめたい。 ではヨハネ15章を続けましょう:

ヨハネ15:10-14
「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの中にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

逮捕の数時間あるいは数分前、弟子たちへの最後の説教の中で、主は繰り返し、御命令を守ることに決定的な重要性があるとおっしゃっています。私たちが主の命じることを行うなら、私たちは主の友なのです。私たちが主にとどまり、心を善く保ち、主が望まれるように御言葉の種が豊かな実を結ぶように努めるなら、私たちはぶどうの木にあるのです。もし「実」や「戒め」という言葉を聞いて、主がすべてを成し遂げてくださったのだから自分たちにすべきことは何もないと思い、居心地の悪さを感じるなら、改めて考え直すべきです。なぜなら主は、このように語ることに対して不快感を抱くどころか、繰り返し強調されることで、御自身が私たちに求めることが何であるか、それが義務であり、行えば良いが、行わなくても大した問題ではないような任意の行為ではないことを、極めて明確に示しておられるからです。その命令を拒み、ぶどうの木に留まりながらも悔い改めない者は、決して主を知ることができず、木から切り離され、天の国に入れないほどに、これは重大なことです。これは決して、私たちが決して失敗したり罪を犯したりしないという意味ではありません!しかし、失敗や転びがあっても、神の御言葉を守ろうと努力するということです。私たちは信仰のレースを走っています。たとえ毎日でも倒れることがあっても、立ち上がり続け、主イエスを見つめながら進みます:

ヘブル人への手紙 12:1-2
「…すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」

愛:最も重要な戒め

さて、主の戒めについて言えば、それらすべてを包括する一つの戒めがあります。それは互いに愛し合うという戒めです。12節にこう記されています:

ヨハネによる福音書 15:12
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」

そして、私たちが自らを欺かないように、ここで意味されているのは、安っぽい愛、言葉だけの愛ではない。むしろ、行いによる愛である。ヨハネが第一の手紙で言ったように:

ヨハネの手紙一 3:18
「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。

そしてこの意味について、彼は数節前にこう説明している:

ヨハネの手紙一 3:14-18
「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。 兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。 世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」

もしあなたがたが兄弟を愛さないなら、それはぶどうの木にではなく、死の中に留まっているのです!もしあなたがたが兄弟を憎むなら、それは殺し屋と同じです!そして悔い改めないなら、自分を欺いてはいけません。私たちが留まっているもの、すなわち死を受け継ぐのです。さらに、私たちは主を愛していると言いながら、すぐそばにいる兄弟が困窮しているのに、目を背けることを選ぶのですか?自らを欺いてはならない。神の愛は私たちの中に留まっておらず、私たちもまた、ぶどうの木である神の中に留まっていないのだ!私たちの信仰の真実は、私たちの行いによって証明される。主に従うとは、正しいことを言うこと―言葉だけで愛すること―だけではなく、正しいことを行い、真実をもって行動で愛することでもある。このことについて、主はマタイによる福音書25章34-46節で非常に明確な証拠を示してくださっている:

マタイによる福音書 25:34-46
「そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

そしてヤコブが言ったように:

ヤコブの手紙 1:22-27
御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。自分が信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。孤児や未亡人が困っている時に世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。

結論

結論として、愛する兄弟姉妹たちよ:私たちは日々、主の戒めを守るよう努めなければなりません。互いに愛し合うこと―言葉ではなく行いで―これが最も重要な戒めです。そして互いに愛し合うならば、私たちは互いに赦し合い、悪しきものを貪らず、互いに悪口を言わず、互いに妬みません。使徒パウロがコリント人への第一の手紙13章で示した愛の定義を思い出しましょう。

コリント人への第一の手紙13:4-7
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」

そうすれば、私たちは主の真の弟子となる。そうすれば、キリストは来て、ご自身を私たちに現してくださる。そうすれば、父と御子が来て、私たちの中に住まいを築いてくださる。そうすれば、私たちはイエスの友となる。そうすれば、私たちが語るとき、主は耳を傾けてくださる!そして、主の命令が重荷であるなどとは決して思ってはならない。いいえ!それらは軽い。なぜなら、主が私たちを支えて、それらを実行させてくださるからだ:

マタイによる福音書11:28-30
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

ですから、私たちは神の御心を行うよう努めましょう。ぶどうの木に、また主に留まる者だけに与えられる主の御臨在に留まるよう努めましょう。そして、これを終わりまで、日々続けていきましょう。