聖書の事実

『愛されたものたち、私たちはいまや神の子である』 (PDF) PDF版

『愛されたものたち、私たちはいまや神の子である』

私はガラテヤ人への手紙第3章23節から第4章7節が好きです。23節と24節でパウロは、律法の役割とはなんであったかを説明します。律法は信仰が現れるまで、私たちの養育係りとしての役割を果たしました。そこでは、その後、信仰が来たときなにが起きるかについて、教えてくれます。

ガラテヤ人への手紙第3章25-26節
『しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。 あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。』

『あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。』キリスト・イエスにある信仰とは、彼は神の御子であると信ずること、聖別されたもの、救世主は私たちを神の子供、その息子、娘にしてくださることです!福音とはよい知らせのことであり、これは本当によい知らせなのです。パウロとシラスはピリピの獄吏に言った、『主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます』(使徒行伝第16章31節)。『あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。』という御言葉がここに付け加えられます。ガラテヤ人への手紙第4章はさらにこう続きます。

ガラテヤ人への手紙第4章1-7節
『わたしの言う意味は、こうである。相続人が子供である間は、全財産の持ち主でありながら、僕となんの差別もなく、父親の定めた時期までは、管理人や後見人の監督の下に置かれているのである それと同じく、わたしたちも子供であった時には、いわゆるこの世のもろもろの霊力の下に、縛られていた者であった。しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。したがって、あなたがたはもはや僕ではなく、子である。子である以上、また神による相続人である。』

6節と7節にはふたたび、神の子、その子供たちという言葉が見られます。神はこれをご自分の息子の霊を私たちの心に送ってくださり、そこで私たちはアバ(お父さん)、父よと叫ぶのです。私はこの部分を何度も読み、いつも喜びに満たされるのです。ですがここで私はいつも混乱してしまいました。その混乱のもとは第5節の『養子』という言葉です。知ってのとおり養子になった子供は、その養い親と誕生によってつながっているわけではありません。私たちはみな、神の子供であると知るのはすばらしいことがらである点には賛成しますが、それは養子とされたものであり、そこでは神は生誕によってあなたの親になっているのではなく、神に生まれたために、あなたはその子供となっているのです。そこで私は聖書にあなたとともに入って行き、神の子という点について、神の御言葉がどういっているかを見てみたいと思います。ここにいくつかの疑問をあげます。それにはいずれ答えが出てきます。

ひとはどうしたら神の子になるのでしょうか?

そのためにはなにをしなければならないのでしょうか?

それは生誕によってでしょうか、養子縁組によってでしょうか?

本稿の終わりまでには、私たちはこれらに答えられるゆいつの権威を持った原典から、あきらかな回答を得るでしょう。それはほかならぬ、神の御言葉です。

養子とされたものと言う言葉

上記の『息子として養子とされたもの』という言葉は、つぎのギリシャ語が訳されたものです。それは “υιοθεσία” (ウイオセシア)です。この言葉は息子を意味する『ウイオス』と、置くを意味する『セシス』というふたつの言葉を合わせたものです。『ウイオセシア』とはしたがって『息子としてそこに置く』ということになります。そこでガラテヤ人への手紙第3章をよりよく理解するために、その前後を見てみましょう。その23節から第4章の4節は、学校教師のもとに置かれている子供について述べています。たとえ相続人であっても、その年齢の時には、その子供は奴隷とあまり違いはありません。別の言い方をすれば、子供は子供であるために、奴隷の場所に置かれていたのです。

ガラテヤ人への手紙第4章1-3節
『わたしの言う意味は、こうである。相続人が子供である間は、全財産の持ち主でありながら、となんの差別もなく、父親の定めた時期までは、管理人や後見人の監督の下に置かれているのである それと同じく、わたしたちも子供〔ギリシャ語の『ネピオイ」つまり嬰児より少し大きいだけの、小さくてまだしゃべることも出来ない子供のことで、これはガラテヤ人への手紙に書かれている『ウイオイ』の訳語である『息子たち』とは異なる〕であった時には、いわゆるこの世のもろもろの霊力の下に、縛られていた〔ギリシャ語の奴隷の身の上にある〕者であった。

ガラテヤ人への手紙第3章1-2節には、時が来るまで、管理人と後見人のもとに置かれている後継者の例が描かれています。このひとはたとえ跡継ぎの身の上でも、父が定めた時がくるまでは、単なる奴隷の地位に置かれています。『それと同じように』とガラテヤ人への手紙第4章3節はいいます。父が指定されたときが来るまでは、私たちはこの世のもろもろの霊力のもとにおかれた奴隷の地位にいるのです。そのつぎになにが来るか、第4‐5節が教えてくれます。

ガラテヤ人への手紙第4章4-5節
『しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちにウイオセシア〔子たる身分〕を授けるためであった。

第4節のはじめの『しかし』と言う言葉は、それに続くものを、それに先立つものと対比させています。ではそれ以前の状態はどうだったのでしょうか? 父が定めたときはまだ来ません。私たちは奴隷の地位に置かれています。私たちはこの世の力の奴隷です。そして学校教師の、管理人の、後見人のもとに置かれています。それにもかかわらずこの『しかし』と言う言葉は、先に来る変化を示しているのです。その変化とはなんでしょうか?完璧のとき、父が定めたときがやってきたのです。神は御子を世に送り、律法のもとにあるものを請け出し、奴隷の地位を息子の地位に置き換えたのでした。私たちはまたガラテヤ人への手紙第3章の言葉を使って見ることが出来ます。

ガラテヤ人への手紙第3章23‐26節
『しかし、信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。』

『信仰が来る前』の時はありました。これは律法のときであり、ガラテヤ人への手紙第4章がいう管理人、後見人の時代でした。これは私たちが奴隷の場所にいたときだったのです。ですがその後に信仰が来、時が満ちたのです。キリストがおいでになったのです!学校教師、管理人、後見人は、律法とはそれらすべてのものなのですが、それがみななくなったのです。私たちはもうそのもとにも、奴隷の位置にもなくなったのです。その代わりに私たちにはいま、息子の地位があるのです。

別の言葉で言えば第4章で使われて、『養子とされた息子』と訳されている『ウイオセシア』は、『息子の地位』と訳したほうがずっとよいでしょう。これは訳がそう解釈される可能性があるように、神は私たちの養父になったというために使われるべきではなく、主イエス・キリストの来臨、信仰の到来とともに、私たちは自分の地位を奴隷から、息子の地位に変えるという意味に解釈すべきなのです。それは私たちと神との関係を、養子とされたもの対嫡出子という意味でのべているのではなく、息子の地位を持っているもの対奴隷の地位にいるもの、と考えるべきなのです。

養子になったのではなく、神のもとに生まれる

ガラテヤ人への手紙の上記の文節と『ウイオセシア』という言葉は、神が私たちの養父という意味ではないという点は、聖書の他の多くの場所にその証明があり、したがって私たちは神の養子ではなく、神の嫡出の子なのだとわかります。ヨハネによる福音書にはこうあります。

ヨハネによる福音書第1章12節
『しかし、彼〔主イエス・キリスト〕を受けいれた者、すなわち、その名〔イエス・キリストの名〕を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。』

ここで言う『子供たち』とはギリシャ語のτέκνα (テクナ)で、『うまれたもの(生むτίκτωから来た)』という意味です。これは『生誕という事実に重要さを与えるもの』です。事実つぎの節がこれをなによりもはっきりさせています。では上記の節をいっしょに読んで行きましょう。

ヨハネによる福音書第1章12-13節
『しかし、彼〔主イエス・キリスト〕を受けいれた者、すなわち、その名〔イエス・キリストの名〕を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。』それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである

この12節にある子供たちは、いったいどこから生まれたのでしょうか? 答えは13節にあります。それは神によって生まれたのです! したがってもし私たちが神によって生まれたのであれば、私たちを神に結び付けるものは誕生であり、養子縁組ではないのです。

次の文節は私たちを神に結び付けるものは誕生であり、養子縁組ではない、したがって神は私たちの文字通りの父なのだということを同じヨハネによる福音書の中に見て行きます。ここで私たちはイエスとニコデモ(ユダヤの教師)が第二の誕生について語っているのを見ます。

ヨハネによる福音書第3章3-8節
『イエスは答えて言われた、「よくよくあなた〔ニコデモ〕に言っておく。だれでも新しく生れ〔ギリシャ語では『天上から生まれる』といっています〕なければ、神の国を見ることはできない」。 ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。 〔ギリシャ語:天上から生まれる〕。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。』

イエスが明らかに述べたように、ふたつの誕生があります。第一の誕生は水あるいは肉による誕生です。これは物理的な誕生で、地上に生きた人々はこのように生まれています。この誕生とは別に、イエスがはっきり言われたように、神の王国に入るための前提条件となる誕生です。これが『天上からの誕生』なのです。多くの翻訳者がこれを『再び生まれる』と訳しています。これは実際第二の誕生で、したがって私たちが再び生まれるというのは間違いではありません ,が、このギリシャ語がいっているのは『天上から生まれる』つまり『天井にいる神のもとに生まれる』ということなのです。

私たちはヨハネの福音書の中で御言葉は主イエス・キリストの名によって神のもとに生まれるといっているのです。よって信ずることは、神によって生まれるものだといっています。ここで主は『天上から生まれる』と言っておられます。どちらも同じであり、神の王国を実現させるためには、第二の誕生が必要である事実をそれは指摘しているのです。これがヨハネによる福音書の第3章にあるように、神による誕生、あるいは天上からの誕生、あるいは聖霊による誕生なのです。神の御言葉には養子縁組というようなことがらに触れたものはありません。イエスは、私たちは神によって養子とされるとはいっておらず、ただ私たちが神によって生まれるといっているのです。私たちを神の子とし、私たちに、神をお父さん(アバ)と呼べる権利を与えてくれるのはこの誕生に他ならないのです。私たちは、神によって養子とされたのであれば、神を父と呼ぶことはできますが、明らかにここには養子縁組はなく、誕生だけがあるのです。それはともかくとして、まずつぎに進み、ヨハネ書をさらに読んでゆきましょう。そこにはこうあります。

ヨハネの第一の手紙第5章1節
すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である。すべて生んで下さったかたを愛する者は、そのかたから生れた者をも愛するのである。』

先に私たちはヨハネの福音書とガラテヤ人への手紙のなかで、ひとは主イエス・キリストを信ずることによって神の子となることを見てきました。それは、ここにまた繰り返されています。誰でもイエスはキリストであること、つまり聖油を塗られたもの、救世主と信ずるものは神によって生まれたひとです。それはこれ以上ないほど単純で、こよなくよいものなのです! 福音とはよい知らせのことであり、これは本当によい知らせなのです。

さらに私たちはこの真実、新しい誕生の真実をペトロの第一の手紙の中に見て行きます。

ペテロの第一の手紙第1章23節
『あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。 』

ここでペテロはふたたび、新しい誕生について述べています。つまりヨハネが言った第二の誕生、神による誕生です。これは朽ちる種からではなく、朽ちないものからの誕生で、つまり神の変ることのない生ける御言葉によったものなのです。

ペテロの第一の手紙第1章23節と同じことを、ヨハネによる福音書第3章1-2節もつぎのようにいっています。

ヨハネの第一の手紙第3章1-2節
『わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。 愛されたものたち、私たちはいまや神の子供である』

私たちはいまや神の子供なのです。あしたではない、私たちが死ぬときではない…いまなのです!! どういうふうになのでしょうか? 主イエス・キリストへの、神の御子への、救世主への信仰によってなのです。これは将来の約束なのではありません。それは現在の現実であり、あなたはそれをいま手に入れることが出来るのです!それはコリント人への第二の手紙で、パウロがつぎのようにいっているとおりです。

コリント人への第二の手紙第6章2節
『神はこう言われる、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」。 見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。

『子たる身分を授けられることを待ち望んでいる』‐ローマ人への手紙第8章23節

ヨハネの第一の手紙で、私たちはイエス・キリストへの信仰を通じて神の子であることを見ましたので、つぎはローマ人への手紙を見て行きましょう。

ローマ人への手紙第8章23節
『それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられる〔ウイオセシア‐息子として置かれる〕こと、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。』

さて上記を読みますと、私たちは息子として置かれることを待っているようであり、いっぽうガラテヤ人への手紙では、イエス・キリストが来たので、私たちは息子としての位置を受け取ったとあり、ヨハネのほうでは私たちはいまや神の子だと言っていますので、これはどちらが本当なのか、まったく混乱しやすいことがらです。ですがこの混乱を避ける鍵は、あの『ウイオセシア』と言う言葉にあります。この言葉を、英語の翻訳がそうであるように養子にすると理解するならば、私たちは完全に混乱してしまいます。養子縁組ということには誕生と同じく、定められた時間があります。私たちが生まれますと、それは(出生証明書にあるように)具体的な日時があり、第二の誕生にも、それはあります(あなたが自分の口から主イエスの告白をし、神が主を死からよみがえらせたと信じた、その日時がそれです)。同様に誰かが養子とされたときには、その日時ははっきりとしています(それは養子にした両親が、関連の書類に署名したときです)。そこで私たちがこの『ウイオセシア』を養子とすると訳しますと、このはっきりした日時は、ローマ人への手紙第8章によれば、まだ来ていないことになります。ですから私たちはそれをまだ待っているので、神の養子とはされていないのです。ですがこの誤解は人工的なもので、『ウイオセシア』を養子とすると訳したためにでてきたものなのです。正しい翻訳は『息子としてその位置に置く』なので、その意味を理解するためには、私たちは第18節から、その前後関係を見ておかねばなりません。

ローマ人への手紙第8章18‐25節
『わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。 なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。 実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。 それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられる〔ウイオセシア‐息子として置かれる〕こと、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。』私たちはこの希望の中に救われているのですが、じつは希望のように見えるものは希望ではない。ひとはなぜ、自分の見たものに希望をかけるのでしょうか?ですがもし私たちが、自分が見てもいないものに希望をかけるならば、私たちはそれを忍耐を持って待ち望んでいるのです。

パウロは創造に触れ、それは無益なことといっています。それは滅びの縄目のもとにあるのです。それは産みの苦しみを続けているのです。これらは大きな苦しみです。それは創造であるだけでなく、御霊の最初の実を私たちは持っているのです。また私たちは自分のなかでうめき、なにかよりよいもの、からだのあがない、主の再臨のときが来て人間の惑わされやすいからだを変え、それを神のように高潔なものにしてくれるのを待っているのです。私たちはうめき、一対一でそれを見るときを待っているのです。パウロはいいました。

コリント人への第一の手紙第13章12節
『わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。』

そこには『今』と『そのとき』があります。わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう! わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう! 今、創造はうめきそのなかで私たちもうめきますが、そのときはこの滅びの縄目のもとから放たれるのです! 私たちはいま最初の霊の果実を持ち、それはそこには時があり、それから私たちは完璧に持つのです。私たちはいま神の息子たちであり、神のもとに生まれ、全知全能の神の子達であり、ヘブル人への手紙第2章11‐12節にあるように、イエスキリストの兄弟となりますが、これはまだ完全なものではありません。息子として完全に置かれるということは、顔と顔とを合わせて見、わたしが完全に知られているように、完全に知ることなのです。そうです、私たちは神の息子、娘としていま置かれているのですが、またそれだけではないのです!そして私たちは霊の最初の果実を持ちますが、またそれは単に最初の果実に過ぎず、そのあとにさらに多くが来るのです。そのときはいつか?主が帰ってこられるときにです! 滅びの縄目から創造が運ばれるとき、私たちが顔と顔を合わせて見るときなのです! キリストとの婚約が(コリント人への第二の手紙第11章2節)、結婚になるときです(ヨハネの黙示録第19章)。

 では本稿をローマ人への手紙第8章でしめくくりましょう。

ローマ人への手紙第8章12‐18節
『それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分〔ウイオセシア(子として置かれる)〕を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。 御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。}

信仰によって私たちは神の子となり、聖霊を受けるのです。この霊によって歩むことにより、そして導かれることにより、私たちは神の子として顕現するのです。別の言い方をすれば、私たちが本当に神の子であるかどうかということは、私たちの生き方により示されるのです。神の真の子供とは、神の霊によって導かれるもののことです。ここに信仰と、その信仰を実践することの間の本来的なつながりが、新約聖書を通じて現れています。真の信仰はつねに実践の中に、それが与える果実となって示されています。ヤコブはこれを非常にはっきり述べています。

ヤコブの手紙第2章17‐18節
『信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。』

私たちが救われるのは働きによってではなく、信仰によってです。もしこの信仰が真実ならば、それは神とその御言葉に従順であることによって、つねにそれぞれの行動となるでしょう。キーワードは実践(つまりあなたが習慣的、かつ第一義的に行うこと)なのです。ですから神の真の子供で(習慣的かつ第一義的に)無法を行うものなどあり得ないのです。私たちはここで、単に罪について話しているのではありません。私たちが話しているのは(習慣として、生活のありかたとして)罪を行うことなのです。同様に、神の霊によって導かれたもの、神の子であるとの告白に沿って生きるものたちのことなのです。結論はパウロの次の言葉にあります。

ガラテヤ人への手紙第5章25節
『もし私たちが霊に生きるならば、霊の中に生きようではないか。』

タソス・キオラチョグロウ