主を褒め称える時に起こる事
使徒言行録第16章
パウロとシラスは、聖霊に導かれてギリシャ北部にあるフィリピに向かうためにトロアスを離れました。しかし到着して数日後に、悪霊を追い出したことで(使徒言行録第16章16節から24節)牢屋に入れられてしまいます。使徒言行録第16章25節から34節では、牢屋に入れられて最初の夜に起こった出来事について書かれています。
使徒言行録第16章25節から34節
「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で叫んだ。『自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。』看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ」
正直、もしパウロとシラスがここで書かれているような事、つまり賛美の歌をうたい、神への祈りをしていなかったら、これらすべてのことは起きていなかったと思います。牢屋にいる全ての人々が彼らの賛美に心打たれていました。神がパウロとシラスだけでなく、全ての囚人の鎖を外し、牢の全ての戸を開けられたのを見てください!この日何人の魂が主を見出し、本当の意味で自由になったでしょうか。天国に行く時に実際の人数は分かると思いますが、少なくとも数人はいたことが分かります。看守とその家族です。彼らはこの夜に主を受け入れ、いつかまた、私たち、パウロ、シラスと共に神に賛美を捧げ褒め称えることでしょう。
歴代誌下第20章20節から23節
神の民が神を褒め称えているところが描かれている箇所が他にもあります。歴代誌下第20章です。ユダの王であったヨシャファトに対して大軍が攻めてくる時、彼は非常に恐れました。しかし彼は、するべき事をしました。つまり、ヨシャファトは主と主の力を求めたのです。彼は、ユダとエルサレム全てを呼び寄せ、公の場で神に祈り、神が彼の先祖に与えた約束について語りました。そして主は、救いの約束を彼とその民に与えました。実際、その救いの素晴らしさにより、ヨシャファト達は戦う必要もありませんでした!主が17節で民に向かってこのように語られた通りです。
歴代誌下第20章17節
「そのときあなたたちが戦う必要はない。堅く立って、主があなたたちを救うのを見よ。ユダとエルサレムの人々よ、恐れるな。おじけるな。明日敵に向かって出て行け。主が共にいる。』」
イスラエルはただ固く立つだけで、他に何もする必要もなく、主が彼らを救うという約束です。これは主が民に与えた預言的メッセージでした。18節から22節には、主を恐れていたこの王が何をしたかが書かれています。
歴代誌下第20章18節から22節
「ヨシャファトは地にひれ伏し、すべてのユダとエルサレムの住民も主の御前に伏して、主を礼拝した。レビ人のケハトの子孫とコラの子孫は立ち上がり、大声を張り上げてイスラエルの神、主を賛美した。翌朝早く、彼らはテコアの荒れ野に向かって出て行った。出て行くとき、ヨシャファトは立って言った。『ユダとエルサレムの住民よ、聞け。あなたたちの神、 主に信頼せよ。そうすればあなたたちは確かに生かされる。またその預言者に信頼せよ。そうすれば勝利を得ることができる。』は民と協議したうえで、主に向かって歌をうたい、主の聖なる輝きをたたえる者たちを任命し、彼らに軍隊の先頭を進ませ、こう言わせた。『主に感謝せよ、その慈しみはとこしえに。』彼らが喜びと賛美の歌をうたい始めると、主はユダに攻め込んできたアンモン人、モアブ人、セイルの山の人々に伏兵を向けられたので、彼らは敗れた。」
主にとって、民が主を褒め称える際に伏兵が備えられていたことは重要だったでしょうか?もちろんそうです。「うたい始めると」という表現がそれを語っています。(「彼らが喜びと賛美の歌をうたい始めると、主はユダに攻め込んできたアンモン人、モアブ人、セイルの山の人々に伏兵を向けられたので」)主は、いずれにしろ約束通りに民を救っていたでしょう。しかし、その救いのタイミングに目をとめることが重要です。そのタイミングとは、民が主を褒め称えた時だったということです。
歴代誌下第5章11節から14節
歴代誌下第5章にも賛美と主の臨在について書かれています。エルサレムで神殿建設が終わり、ソロモンが民と共に就任式を行う場面です。祭司たちがダビデの町から聖所へ、契約の箱を運びました。その後の出来事について11節からこう書かれています。
歴代誌下第5章11節から14節
「祭司たちが聖所から出ると――そこにいたすべての祭司たちは、組分けによる務めにかかわらず聖別されていた――、レビ人の詠唱者全員、すなわちアサフ、ヘマン、エドトンおよび彼らの子らと兄弟らは、麻布の衣をまとい、シンバル、竪琴、琴を持ち、百二十人のラッパ奏者の祭司たちと共に祭壇の東側に立っていた。ラッパ奏者と詠唱者は声を合わせて主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパ、シンバルなどの楽器と共に声を張り上げ、「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主を賛美すると、雲が神殿、主の神殿に満ちた。その雲のために祭司たちは奉仕を続けることができなかった。主の栄光が神殿に満ちたからである」
レビ人が主を賛美し始めた時、主の栄光が現れ、建物全体にあふれました。人々が賛美し始めた時にこの事が起きたのは偶然でしょうか?ここでもそれは違います。偶然であれば、御言葉がこれら両方の場面で「時」を強調することはないからです。主の栄光が建物に満ちあふれたのは、祭司とレビ人が主を賛美した時だったのです。
これらの例を挙げることで、賛美することや歌うことが主の臨在や救いを「手に入れる」ための宗教儀式であるべきだと言っているわけではありません。そうではなく、私たちの創造主の威光や素晴らしさを見る時に心からあふれるものが、賛美や歌であるべきだと言いたいのです。パウロとシラスは宗教儀式として主を賛美していたのではなく、毎晩就寝前に、やらねばならないこととして生活の1部となっていたのです。全てが上手くいっていたからやっていたわけでもありません。その逆で、彼らはこの時牢屋にいたのであり、誰が治療してくれるわけでもない傷を体に負っていました。しかしながら、彼らの心には喜びがあり、その喜びが力となり(ネヘミヤ記第8章10節)、その喜びによって歌っていました。彼らは「見える」通りに目の前のものを見ていたのではなく、目に見えないもの、つまり永遠を見ていました。(コリントの信徒への手紙第4章18節)私たちの目が主を見上げる時、主にある喜びを手にすることができます。ペトロの手紙一でこう書かれています。
ペトロの手紙一第1章3節から9節
「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエ ス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れると きには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」
ペトロが書き送っていた宛先の人々は、私たちと全く同じように悩める試練に直面していました。しかし彼らは、主イエスを信じることによって「言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれて」いました。彼らは、「自分に定められている競走を忍耐強く」「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」走り抜いていました。(ヘブライ人への手紙第12章1節から2節)様々な試練に直面しても彼らが喜びに満ちていたのは、まさにこの事のゆえです。体は痛めつけられ、将来どうなるか分からなかったにも関わらず、パウロとシラスが歌ったのはこの事のゆえなのです。そしてこの事こそが、他の誰も奪うことの出来ない喜びで私たちを満たす唯一の真実であると信じています。
まとめに入りたいと思います。御言葉は、賛美や主に歌うことについて多く語っています。ただの過去の出来事というわけではないことは確かです。むしろこれは、全ての創造にとってあらゆる時代そして瞬間に起こるべきものです。私たちは主を賛美します。主が私たちを創造されたからです。(詩篇第139篇14節)心で主により頼み、助けを得たからです。(詩篇第28篇7節)主の慈しみが天に満ち、まことが雲を覆うからです。(詩篇第57篇11節)主の慈しみはとこしえだからです。(詩篇第106篇1節)神をほめ歌うのは喜ばしく、神への賛美は美しく快いからです。(詩篇第147篇1節)主が命じられ、全てが造られたからです。(詩篇第148篇)
「息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ」(詩篇第150篇)
タソス・キオラチョグロ(Tassos Kioulachoglou)
日本語: Kimiko Ikeda
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